SFの古典的傑作として有名な、アーサー・C・クラーク「地球幼年期の終わり」(創元推理文庫版;旧版)を読んだ。
1969年初版、1973年9版の創元推理文庫。装丁は真鍋博で、地球を真っ黒で大きな鳥(鷹であろうか)がひとつかみにしている。
人類の種としての進化とは、どのような形になるのか?
これがメインテーマである。
人類の想像をはるかに超えた科学力を持った宇宙人(=<上主>(オーバーロード)と称される)によって、管理・支配された地球の運命を描く。
この宇宙人は人類を支配するというものの、その姿勢は非常に紳士的であり、地球人の独立性を認めつつ種としての滅亡を招くような”愚かな行為”ー例えば国家、民族、宗教の対立などに限り解消していく。ある意味、人類にとっては”都合の良い神”のようなものである。しかし、その目的などは一切知らされない。
その目的は、物語に従って明らかになっていく。そして、そこに至るまでには、様々な”喪失”や”別れ”がある。我々の進化とは、我々自身が想像しえない光景であることが描かれる。我々自身の思考の論理では決して演繹できないもの、我々が想像できないもの=すなわち「我々自身にとっての上位概念」の姿を、大きなスケールで描き出す。
物語最終盤では、そうした我々があずかり知らぬ上位の論理、上位のルールによって、人類が新たなフェーズへと移行していく姿が映像的にもダイナミックな場面として描かれる。
しかしもはやそれは我々の論理で理解できるそれではないのである。
現有の論理体系では記述できないことに、それでもなお、その”真理”に少しでも接近するためにはどうするべきか。仮に薄皮一枚隔てたとしても良いので、それに触れるためにはどうすれば良いか。
その1つの回答が、文学としてのSFが目指すものではなかろうか。
この古典的名作の持つスケール感はSFの持つ醍醐味そのものであり、語り得ないものへの憧憬の物語なのである。