カート・ヴォネガット「スローターハウス5」(ハヤカワ文庫)を読んだ。
この小説の構造としては、常識的な世界解釈とSF的な世界解釈の2通りで読解できる。
そのどちらが正しいかは未確定である。
常識的解釈では、眼科医である主人公ビリー・ピルグリムが、1968年に飛行機事故で脳に損傷を負い、宇宙人に誘拐された過去という妄想を抱き、加えて、意識の時系列が不規則でバラバラになってしまったという、いわば精神分裂病者によるストーリーである。
SF的解釈では、この”妄想”は全て事実であり、ビリーは常に時間軸を不規則に移動し、実際に宇宙人に誘拐されたという、タイムワープもののストーリーになる。
ここで、どちらの解釈が正しいか確定させること自体にはさほど大きな意味がないと思われる。
著者の意図は、高度な文明を持つ宇宙人であるトラルファマドール星人の小説一”始まりもなければ、中間も終わりもないし、サスペンスも、教訓も、原因も、結果もない”、”瞬間の深みを一度に見ることのできる”小説ーのように、モザイクのように断片をつなぎメインテーマを描くことにある。
このメインテーマとは、著者自身が経験した「ドレスデン爆撃」の経験であり、戦争の記憶である。
「ドレスデン爆撃」は、著者が言及しているように広島の原爆と同様の、連合国軍による非戦闘民への無差別破壊として知られている。
Wikipediaより引用する。
ドレスデン爆撃(ドレスデンばくげき、英: Bombing of Dresden、独: Luftangriffe auf Dresden)は、第二次世界大戦終盤の1945年2月13日から15日にかけて連合国軍(イギリス空軍およびアメリカ陸軍航空軍)によって行われた、ドイツ東部の都市、ドレスデンへの無差別爆撃。4度におよぶ空襲にのべ1300機の重爆撃機が参加し、合計3900トンの爆弾が投下された。この爆撃によりドレスデンの街の85%が破壊され、2万5000人とも15万人とも言われる一般市民が死亡した。
引用終わり
東京大空襲の11万人、広島原爆の9から16万人(放射線被曝死者含まず)と比較しても、被害者数は甚大な災厄であった。
ビリーはストーリーの中で複雑に(痙攣的に)時間を転移し、イベントとしてはこのドレスデン爆撃をひとつのクライマックスとして迎える。
しかしながら、ドレスデン爆撃という残虐な行為がメインテーマでありながら、その記述は抑え気味であり、無辜の非戦闘員が死んでいるそのさなかに、主人公は強固に作られた生肉貯蔵庫(スローターハウス)の中で、家畜の死骸と一緒に助かる。いわば殺戮の最中の描写は全くない(語り手である作者もその生肉貯蔵庫の中にいたのだからある意味リアリティはあるのだが)。
不規則な時間軸を持った断片によってモザイク状に表現されたビリーの生涯は、戦争における虚弱な兵士としての道化的な役割、トラルファマドール星における動物園での見世物の役割、”醜い容姿の”婚約者に対する消極的態度など、一貫して与えられた運命に対して受動的役割を常に演じている。
”時間の全てを見ることができる”トラルファマドール星人は、”いやな状態は無視し、楽しい時に心を集中する”、”死んだものは、この特定の瞬間には好ましからざる状態にあるが、ほかの多くの瞬間にも、良好な状態にある”という、運命に対する精神的な受動性をビリーに説く。
避けえない自らの消滅の運命に対してさえもトラルファマドール星人は時間を操作することで対応する方法を説き、ビリーもまたこれを理解する。
トラルファマドール星人はビリーにこう語る。
「今日は平和だ。ほかの日には、きみが見たり読んだりした戦争に負けないくらいおそろしい戦争がある。それをどうこうすることはわれわれにはできない。ただ見ないようにするだけだ。無視するのだ。楽しい瞬間をながめながら、われわれは永遠をついやすーちょうど今日のこの動物園のように(略)」(前掲書。p.142)
引用終わり
語り手である著者もビリーと同様ドレスデン爆撃を経験し、この小説の中で、死に対する言及の後に「そういうものだ」という諦念を交えたフレーズを繰り返す。
小説の中で”死”をイメージする出来事に付随的に何度も現れるこのフレーズ「そういうものだ」は、トラルファマドール星人の口癖である(前掲書 p.39)。
本来ビリーの妄想の世界であるはずのこの言葉が、小説の上位構造の描写、即ち語り手である作者の言葉としてもその原則として使用されている。これにより、小説は更に複雑な構造になっていると言えるが、これは先にも述べたように、時間軸を空間を見るように一望させるというトラルファマドール星人の小説を志向しているという意味では正しい効果を挙げているといえよう。
”瞬間の深みを一度に見ることのできる”ことを企図して作られたモザイク化されたこの小説には、絶望的な運命に対する諦念と乾いたユーモアが漂う。
低俗とも思える 「軽さ」と残虐極まりない「大爆撃」の対極なイメージを断片化し、時間という次元から自由に独立させることで得られる”分裂的な思考”は、世界戦争を経験した状況下において、全体との非対称性により極小化された個人の生存手段として最後に残された有効な態度なのかもしれない。
しかしそれはある意味、巨大な絶望の中で立ち竦むしか術のない、我々ひとりひとりのどうしようもない無力さを突きつけられるということでもあり、やるせない気持ちになるのである。