現在の私の仕事は無理やり定義すれば「技術企画」と呼ばれるジャンルで、どちらかというと事務系・管理系の仕事に入ると思う。
メーカーなので、そこで使われる用語やその中身は技術的であるが、実際に自分が技術開発をする訳ではない。
会議のファシリテーションをしたり、アクションアイテム管理をしたり、要するに最終目標のために部門間交渉・折衝をする地味な裏方仕事である。結局、どこかにこうした裏方、汚れ役がいないと、組織とはなかなか回っていかないのである。
こうしたバックオフィス組織は、その特殊性がゆえに、新卒の新入社員が配属されることは少なく、 ある程度キャリアを積んだ技術開発者が異動でこちらにやってくるケースが多い(私もその一人である)
バリバリの技術開発者が、いきなり会議のファシリテーションをするわけで、結構戸惑う。
そんな中、毎年1人は、その仕事の変化にうまく適応できず、悩む人がいる。というか、”何を悩んでいるかもわからなくなって仕事ができなくなる”ようなケースが多いのだ。
■悩みが伝わらない
デッドロックにハマってしまった人は、もはや何を悩んでいるかすら、上手く表現できない。
業務を見える化して、定型業務の効率化を図っても、何か芯を外しているようで、一向に本人の悩みは解消されない。マネジメントとしても、”大変そうなので、仕事を減らしたのに、ちっとも残業が減らない。本人は悩んでいるようだが、要領を得ない”といった状況になる。
本人は”仕事がうまく回せない”という言い方をすることもある。これだけ聞くと、どこかに「今まで持っていないスキル」や「まだ知らない知識」があって、それを獲得し、知ることができれば、すぐに問題は解決できそうだ。そこで、いったん業務を減らし、研修やOJTなどをやらせてみる。
しかし、問題は解消されない。
情報が多すぎて選別できないのか、と、今度は情報をもっと制限してみる。 ルーチンワークに近くなってしまうが、それでも状況は変わらない。
やはり自分ひとりで煮詰まっている。自分の中で仕事を停滞させてしまうのだ。
■仕事が回らない理由を掘り下げる
ここで本人が訴える「仕事が回らない」とは、いったい何を訴えているのであろうか。
内面的解釈をすると「つまらない仕事なので、やる気が起こらず、結果として処理が進まない」と聞こえる。納得感がないがゆえに、仕事を停滞させているのである。
そのため、業務をナビしようが、サポートしようが、RPA化しようが、本人は何時までも「仕事を回せない」。
なぜなら、その価値が自分の中で腹落ちしていないからである。 今やっている仕事は「つまらない」と思っているのである。
■「つまらない仕事」だから、やる気が起きない?
ただ、そもそも論として、仕事とは、根源的には自分以外からの自分への強制であり、ある意味全て「つまらない」ともいえる。だからこそ対価として金銭と交換しているのである。
つまらない仕事であっても、納得できるものと、そうでないものがあるということで、納得できない理由があるのであろう。
では、本人は仕事に何が見いだせないがために、納得できないのか。
ひとつの仮説は、自分都合でアウトプットを出せないのは嫌だ、ということではないか。
希望として、自分都合でアウトプットを出し、そのまま受け取られ、高評価をもらいたい、ということである。
確かにそれは楽しいであろう。ストレスはゼロである。
■自分都合の仕事は本当に”楽しい”か
ただ、自分のアウトプットが、他人にとって何の役に立たなかったとしても、本当に”楽しい”と思えるのだろうか。それで彼の悩みは解決されるのであろうか。永遠に教育期間にいるようなものだ。
もちろん、他人に評価されなくても自分じしんで納得できる仕事、というものもある。しかし、それですらも自分の中での評価軸があってこそであろう。
面白いとか、つまらないといった基準ではなく、他人の役に立つか、そうでないか、という評価軸を持ち、仕事を判断すれば、どうなるか。
つまり役に立つかどうかの評価基準=他人基準の尺度を持った上で判断するべきであろう。
■他人の役に立たない仕事だから、やる気が出ない
したがって当初の
「仕事が回らない」 →「つまらない仕事なので、やる気が起こらず、結果として処理が進まない」
とは、こう言い換えられる。
「仕事が回らない」 →「他人の役に立たない無意味な仕事なので、やる気が起こらず、結果として処理が進まない」
この文章自体は、もっともらしい。
問題は、当の本人が与えられた業務を「他人の役に立たない無意味な仕事」と考え、 その周りの人間はそう思っていない(だからこそやってもらいたい)ところに大きな認識のズレがある。
なぜ「他人の役に立たない無意味な仕事」と考え「やりがいを見いだせない」のか。おそらく以前従事していた技術開発であれば、自分の業務は他人の役に立っていた、と考えていたのであろう。確かに技術開発は評価尺度がデジタル化されやすい。
一方、会議のファシリテーションや、それにつながる部門間交渉などの間接的な事務仕事は、人間関係も発生してストレスもたまるし、いてもいなくても仕事が回るようにも見えて「役に立たない無意味な仕事」としか本人には思えないのである。
なぜか。
おそらく部門間交渉、折衝というものは、本来やるべきでないもの、ムダなもの、という認識があるからではないか。創造的な仕事でない、と認識しているのではないか。
■AIによって「交渉」は無くなる?
確かにAIが進化していったら、あらゆるコンフリクトは事前に消滅され、こうした交渉ごともなくなりそうだ。AIのキーワードとして、最適化、などという言葉もある。
しかし、そんな単純なものではないと私は思う(AI化はできるが、高度なレベルだと思っている)。
数理モデルとしては、制約条件と数値指標を見える化し、その数値を最小化にするための最適化問題として設定できそうだ。
しかし、実際への適用とすると、数理モデル自体が動的に変化する状況下での未知の因子を含む多変量解析になり、これはなかなか難しいのではないかと思う。要するに検討のフレーム自体に動的変化があるがゆえに、最適化問題としては極めて高度である。
たとえるなら、ひとつのゲームのルールの下ではAIは人間を上回るが、ルール自体が動的に変化する、あるいはゲーム自体が動的に変化するような問題はAIにとってかなり難題ではなかろうか(それでも最終的には達成しそうだが)。
その意味で、「交渉」とは非常に知的な創造的行為と考えるべきであろう。
■交渉は、押し付け合いではない
もし、悩んでいる本人が、「交渉」とは単純なゲームである(=つまらない)と判断しているとすれば、 それは、交渉の実務をお互い自分だけの都合を押し付けるものであると理解しているからではないか。
そこでは、他人とは自分に相手の都合を押しつける存在でしかない。
要するに、お互いの都合の押しつけあいが交渉の本質だと理解しているのではないか。
そのような認識に達してしまう理由は何であろうか。さらに掘り下げてみる。
「自分と同じような他人がいる」という認識がない、「他人都合」に対する想像力がない、他人目線がない。自分目線しかない。ということであろう。 そうした人には、自分の基準と、自分と同じ基準を持つ他者とが、交渉の結果、折り合いをつけるという認識に達しないのである。
繰り返すが、交渉とは都合の押しつけあいではない。 両者の言い分を正しく理解した上で、ある種の折り合い、落としどころをみつける創造的行為である。 矛盾をみつけ、その矛盾を乗り越える方法を探す。 その折り合いは、当初の矛盾点が内包されているが故に、止揚されたものとなるはずだ。
■その結果・・・・
というようなことを、最近、何人かのメンバーの前でスピーチした。
悩む彼らが「先輩」としての経験談を聞きたい、と言ってきたからである。
どうやら、目的は、”議事録を速く作成できる速記術”のようなテクニカルなことを聞きたかったようで、 話が進むうちに「そんなことを聞きたいんじゃない」感が半端なく、 来年のオリンピックの冷房に使えないかと思うくらいの会場のクールさであった。
特に原因を悩む本人の内面に勝手に解釈しつつ後半の街学的言い回しで気持ち良く自論をぶっていた際に、何か一歩間違うと今この場でクーデターが起こって、集団リンチを食らうのではないかと思えるくらいの敵意を感じたのであった。