新型コロナ感染防止のための緊急事態宣言は終わったものの、まだ状況は不透明である。
町内会も、なんだか活動自体が不透明で先が見えない状態に陥っているようで、こうした小規模の自治活動を、コロナ後にどうすべきか誰もスタンスが掴めていないような雰囲気になっている。
月一恒例であった町内広場の除草作業も、おそらく密度問題により中止、その結果、広場はクローバーが群生している。まあ、これはこれで生物的には(蜜蜂とか)いいのかもしれない。
そして本日、回覧板で「夏祭りの中止」の連絡も回ってきた。
別に我々の町内会だけが祭りを中止したわけではない。周辺の町内会も同様なのである。また、密接な地域の神社の例大祭も同様に中止になっている。
やむを得ないのは理解できるのでこの判断には文句はない。
ただ、こうしてコロナ前後で日常活動が変化する、その際に、継承できない経験知のようなものがありそうで、これらを取りこぼしてしまう不安がある。
個人的には高齢化の中で町内会活動は”茹でガエル”状態になっていると思ってきた。
活動の”引き算”が必要だが、なかなか実際問題、恒例行事をやめることは難しい。
特に理由としてリソース問題だと尚更である。
”頑張れ”みたいな精神論が出てきて、結局、真綿で首を締めていくような”茹でガエル状態”になってしまう。
今回のケースは、結果としてこれまでできなかった活動の”引き算”が、コロナという外的要因によって達成できたことになる。
特に高齢者への影響が大きく、彼らが当事者になったことが大きかったであろう。
従来のケースでは、高齢者はむしろ当事者ではなかったが故に、”従来はできたものをやめるのはどうか。自分たちの世代ではできた”のような言説が一定の発言力を持っていたのだ。
原因は原因としてさておき、集団で集まるような活動が制限され、過剰気味だった活動が低減される。
めでたしめでたし・・・なのであろうか。
今後、こうした町内会レベルであるものの発生する「リスク」(それは例えば、町内会所有の物品の老朽化、回収などもあるだろうし、予算自体の見直しもあるだろう)に対する、過去の経験知が生かせなくなるような、ここで大きな断絶が起こりそうな予感をしている。
その承継を考える必要があるのではないか。
アフターコロナにおいては、人々が集合することへの配慮が発生する。それは自治会活動の延長に位置する「政治」の世界も同様であろう。
こうした地域の集まりに選挙活動として顔を出すことも機会そのものが少なくなる。そうすると従来の政治手法である”ドブ板選挙”ではなく、リモートでのドブ板選挙になるであろう(”ドブ板”という概念がなくなるわけではない)。
そこにも「断絶」が生まれるはずだ。
こうした生まれた社会的な断絶が、今後ゆっくりとした時定数で、我々の社会に痕跡を残すであろう。
行動様式の変容に続く「断絶」。
それに伴う、もう一つの「変化」。我々の社会に何らかの変化を生み出すと思われる。新型コロナの影響によって、我々の社会の継続性に傷痕を残されたという実感がある。
そうしたことを思った夏祭りの中止の報であった。