藤子不二雄Aの名作「まんが道」でも描かれていたが、マンガ家たちの楽園「トキワ荘」でリーダー格であった寺田ヒロオの印象は大きいものがあった。
NHKドラマで演じた河島英五のイメージと同様、頼もしい兄貴分としての存在感があったのだ。
トキワ荘のメンバーは確かにマンガの創作の才能は一流であったが、社会性という意味では非常に脆弱だったと思う。
いわば彼らは、マンガの才能だけが溢れる”子供”であった。
トキワ荘のメンバーの中で、寺田だけが社会性も合わせ持ち、彼らに社会人としてのマナーなどを教示しており、彼らもその知見を十分頼りにし敬意と信頼を示していたことが様々なトキワ荘関連の著作で描かれている。
そして、彼らの商業的な成功と寺田の後半生は、対称的な軌跡を描く。
寺田は1976年以降目立った作品は発表することなく実質的な断筆に至る。
茅ヶ崎の自宅の離れに1人籠もって1992年に死に至るまでの16年間表舞台にはほとんど出ず、ほぼ隠遁、もっと悪く言えば引き篭もったアルコール中毒のような状態になっているのである。
同様にアルコール中毒であった赤塚不二夫が、こう語ったというエピソードが盟友・長谷邦夫の著書で描かれている。
平成四年九月二十四日、寺田ヒロオの死が報じられた。
酒を飲み続け食事もろくに摂らぬ生活を続けた末の衰弱死だ、と赤塚は言った。
「手塚先生の本葬のとき、奥さんが彼の代理で来てたんだよ」
「そうだったのか。僕は顔を知らないから……」
「うちの人の生活、どうしたらやめてくれるんでしょう。赤塚さん助けてくださいって言われたんだ。でも、おれに助けろと言われても、おれ自身が依存症だものなあ……」
「漫画に愛を叫んだ男たち トキワ荘物語」長谷邦夫.p.317
寺田自身の作品リストをもとにした「寺田ヒロオ年譜」(季刊「えすとりあ」第2号)によれば、月刊雑誌「小学二年生」の連載があったのが1973年まで。それ以降は単発の形に発表の場が限られていく。
寺田は1931年生まれなので1973年時点では42歳。まだまだ働き盛りの年齢であるが、そこから没する1990年の61歳まで、ほぼ茅ヶ崎の自宅で世間との交渉を絶ち、いわば引きこもりをする生活であった。
筆を絶った理由自体は、既に関係者が語るように、過激化する少年漫画の風潮に対する反対意思であったとされる。先に言及した「季刊えすとりあ第2号」は、寺田ヒロオ特集であり、1982年時点(51歳)での寺田ヒロオの肉声インタビューが掲載されている。
そのインタビューにおいて、明確に寺田自身が語っている。
例えば、毎週一〇〇万部二〇〇万部売れていると得意になっている漫画雑誌を、「これが今日本で最も人気のある少年雑誌です!」と世界中の人に送って自慢できますか。紙は汚い、印刷は汚い、内容も汚い。日本には、世界に誇れる製紙・印刷技術があるんですよ。漫画家の技術だって、世界のトップレベルでしょうよ。それなのにこんなみっともない雑誌が、日本の児童文化の代表なんですか。いやこれな(ママ;引用者注)娯楽だオヤツだと、言うなら、たとえ少部数でもいいけれど、本当に日本の児童文化の代表として、世界中の人に胸を張って見てもらえる少年雑誌がありますか。一つもないでしょう。こんな儲け第一主義の社会では、文化は育たないんですよ。(後略)
「えすとりあ 季刊2号」(えすとりあ同人)「寺田ヒロオ-児童漫画再考-」p.16
このように手塚治虫以降(手塚は否定に含めない)のマンガ家、つまりトキワ荘世代からの全て、果ては製本技術まで含めた現在のマンガ文化全てを、呪詛を込めて実質的に否定するのである。
このような寺田ヒロオの姿勢は、成功したトキワ荘のマンガ家たちにとって、ある種の背徳感、後ろめたさにも似た心理的重圧を与えたと思われる。誰もが認める人格者であり社会性の指導者としての寺田の生活者としての存在感と、そして寺田自身の現代の文化を否定した上での自裁の態度を見せつけられて、複雑な思いであったろう。
外的世界に反抗し続けた寺田の存在は、時代の主流に追従できなくなった一表現者のサイレントな抗議としての”緩慢な自殺”であるとは片づけきれない要素を含んでいる。
日本のマンガ文化史において、寺田の存在をどのように位置付けるべきかは、そのあまりに対称的な生き方を現示された我々にとって、大きな課題を含んでいるといえるのだ。