他人に裏切られる、ということ。特に技術者の場合

 このところ気分が落ち込んでいる。主な原因の一つは、ある遠いところで今も進行している、ある一つの事態であることは分かっている。

 この事態は現在進行形であるが故に直接的には書くことができない。

 しかしながら、自分の今の感情を整理する意味でも、少し書き始めておきたいと思う。

 ディテールは敢えて事実とは異なるように改変したりボカしているが、事態の構図は事実である。

 事の起こりは8年前のことである。

 ある会社と、ある技術について、共同開発を開始した。もう少し詳しく書くと、その会社の製品を対象とした製造技術について、共同で検討をするプロジェクトを開始したのである。

 1年程度の技術検討の結果、ある成果が出た。

 我々が既に持つある特定技術を応用することで、その会社の製品設計品質が向上でき、結果コストダウンができることがわかったのである。

 つまり、我々の持つ先行技術や知見を水平的に応用することになるので、実行スキームとしては、我々の保有技術をその会社へ移転させることになる。

 その会社が、我々の技術を使うことにより儲けることができるようになる訳で、私自身は満足であった。

 達成感もあった。

 向こうの担当者には我々の技術を惜しむことなくオープンに提供した。

 いくつかの技術的な専門書も個人的に貸与したりした。

 それからしばらくしてのことである。

 製造業のIT系webマガジンに、一つの記事が掲載されているのを偶然見つけたのである。

 その記事ではその担当者が実名で、その技術について比較的大きな会議のスピーカーとして語っていた。

 そして、その報告された技術とは、まさに共同で我々と共同で進めていた内容そのものであったのである。

 一応本人なりに機密は考慮しているのか、我々の製品固有の情報については一切語っていない。

 だが、その考慮の結果として我々を登場させることなく開発ストーリーを進めたことにより、登場人物は報告者自身だけになる。必然的な結果として、あたかも報告者ひとりでその技術が製品応用できることを発見し、課題解決したような形で語っていることになってしまっている。そして、あろうことか、解決手段として我々が実際に使ったものとは異なるある特定会社のITツールを利用したという展開になってしまっているのである。

 いわば事実と異なることを、公の場で語っていたのだ。

 目を疑った。

 そもそも設計・製造技術とはノウハウも含め、企業の成長力の源泉であり、いくら学術的な内容であっても簡単にオープンにしてはいけないはずである。

 もちろん、こちらに発表の事前打診もない(あったら当然止めていたが)。こちらも迂闊にも信頼関係がある(同じ資本関係のグループ会社のため)と考え、厳密な縛りのある機密保持契約を結んではいなかったのは、完全にこちらの落ち度であった。

 リーガル的な意味で、契約上の機密保持違反には問えないとしても、なお残る問題もある。

 それは大きく2つある。

 ①せっかくの技術的成果を無償で公開していること。わざわざ苦労して発見した製造ノウハウに属する内容を、敢えて早々に世の中に発表しなくていいじゃない。ライバル会社も見ることができる状況で、簡単にそれを公知化して、世の中に広めてしまうことについて。これは彼の所属する会社にとっての利益相反行為ではないのかと。

 ②事実と異なること、いわば「捏造」行為があること。自分が独力で実行したとする記事の表現は完全に事実と異なる。何故なら、それは彼に我々が教えたからである。さらに加えて、特定のITツールを手段として援用した事実も異なっている。今回の結果は、我々が保有していた別のツールによる解析結果である。だが、なぜ彼がそのツールを使ったと語る必要があったのか。その理由はただ一つ。その実際には使っていないが使ったとするツールを作っている企業が、彼がスピーカーとなった会議のメインスポンサーだからであろう。

 正直どっと疲れが出たし、裏切られた、と思った。

 しかし、私は静観した。

 正直どうしていいかわからなかったと言ってもいい。

 その技術応用について、第一発見者である「名誉」を奪われたことは、実はあまり気にしていない。

 むしろ一番悲しかったのは、自分の実力でないことを、自分の実力であるように語る技術者が世の中にいる、そしてその記事がwebで一般公開される結果、関係者である我々の目に止まった際に、我々がどのような感情を持つかすら想像できない技術者が少なくともこの世の中には一人いる、という事実であった。

 我々は甘かったのか。

 性善説に立つべきではなかったのであろうか。

 だが、仮に、彼がそれで技術者として名をあげたとしても私自身は何も感情が動かないであろう。

 なぜなら、彼の実力はこちらが良く理解しているのである。そんな付け焼き刃のメッキは技術の世界ではすぐに剥がれることを知っている。

 技術の世界は甘くないのだ。

 そして、この発表を皮切りに、彼は複数のメディアで同様の報告をしだした。

 専門家気取りである。

 しかし、未だに彼とその会社からの正式な連絡はない。

Share

【こだまでしょうか】会議のプレゼン時に発生する「やまびこ現象」「こだま現象」「バックコーラス」の存在について【ヘイヘイホー】

 ビジネスシーンの会議室。

 ここ一番のプレゼンなどで、緊張しつつ喋っていると、後ろの方から聞こえてくる「やまびこ」の存在について論じてみたい。

 登山とビジネスシーンは異なる。そもそも会議室は音声が反響するような作りにはなっていない。ではなぜ、こんなことが起こるのか。

 かつて、こんな「やまびこ」の経験がある。

 私が従事していたチームに、後から入ってきた「先輩」がいた。年齢、経験、地位いずれも私より上である。ただしそのチームはプロジェクト的なタスクフォースだったので、直接ラインとしての上司部下ではなかった(いわゆる評価権はないパターンの”上司”である)

 私はそのチームで既に3年くらい従事しており、その「先輩」は、別の部署でキャリアがあり、リソース増強もあって入ってきたメンバーであった。

 加入当初にはこちらから資料を作成し、状況などを説明する場面を設け、本人も「ふんふん、なるほど」と素直に聞いてくれていた。

 だが、一抹の不安もあったのだ。この業務が少々特殊な面があり、技術的にマニアックな部分を理解していないと完結できない要素が含まれている。どうもわかっているとは言い難い。だが、それは本人のスキルの問題だし、もっといえば上の人間はある意味ディテール全て知る必要もない、という考え方もある。そこはただの不安であったのだ。

 そして、ある会議の席でそれは起こった。

 私が少々難しい局面の説明をしている際のこと。

 私「ここで、〇〇からこんな主張があり」

 私「それを受けてこちらで検討した結果、▲▲▲という技術で対応できるのではないかと判断し」

 とテンポを持って偉い人にプレゼンをする。

 ?「▲▲▲!▲▲▲ね!」

 私「?・・・で、予備検討を技術部門にしてもらいました、その結果がこのグラフです。予想通り□□□□現象を低減できており、予想が正しいことが検証できたと思います」

 ?「そうそう!□□□□現象!」

 ・・・後方から、「やまびこ」が聞こえるのである。

 それが「やまびこ」である証拠にこちらが沈黙すると「・・・・」と「やまびこ」は消える。そして再び話し出すと、また”こだまがかえる”のである。

 要するに、先輩が固有名詞をホストの合いの手のような感じで繰り返していたのだ。

 私「え〜まとめますと、我々の開発した■■■を提案しようと思います」

 先輩「そうそう!■■■ね!■■■ね!」

 流石に何か言いたいことがあるのかと思い、

 私「じゃ、ここから(先輩)さん、説明を代わりに引き継ぎますか?」

 すると先輩は、ニヤニヤしながら両手を振って「いやいやいやいや」と拒否。

 本人は意図があってやっていると思うが、そこに新しい情報もないので、ただのノイズでもあり聞きづらいだけのバックコーラスになっている。またこちらのプレゼンの隙間に無理くり入れてくるので、当初のテンポやリズムも狂うので、誰にとっても何一つ良いことはない行為なのである。

 結局これは何だったのであろうか。いっこく堂を二人でやったおかしなパフォーマンスにもなっているし、考えてみて、以下のような結論に至った。

 要するに「理解できていないが、俺は仕事をしているぞ」アピールなのだと。

 チームには自分も参加しており、もっといえばそのプレゼンで暗示的にマウントを取りたいという上へのアピールの結果なのだと。最大の問題はさらに本人も中身を理解できない劣等感があり、それをこのような「やまびこ」で解決しようとしたと思われる。だが、そのあまりの露骨さにそれは奏功していないのは明白であった。

 こちらもこのままだとプレゼンそのものの価値が落ちるので、まずは早急にその先輩の「成果」を手取り早く作ってあげることにした。つまり、彼の深層心理は「俺の成果がないじゃないか」という不満でもあるのだ。それを作ったことにより「やまびこ」は消えたが、どうやらこれがこの人のキャリアの基本スタイルらしく、そのうち消えていった。やはり人生甘くないのである。 

Share

我々の世界は本当に「循環経済」に向かうつもりなのだろうか?ただのポーズなのでは?–年末年始の牛乳消費呼びかけについて思った「個別最適」が大好きな人々のこと

 2021年の年末に少しだけニュースになった出来事があった。

 それは「年末年始に牛乳の消費量が下がるため、消費者ができるだけ消費してほしい」という呼びかけである。

 例えば、こんな記事もある。

 例えば「牛乳飲んで! 大臣が消費呼びかけ 生乳5000トン大量廃棄のおそれ」(FNNプライムオンライン/2021年12月17日)などである。

 その背景として上記サイトから引用する。

2021年は、夏場の気温が低く、牛の乳の出が良かったことで生乳の生産量が増える一方、感染拡大の影響で牛乳や乳製品の消費が落ち込んでいる。

保存がきくバターなどの加工品の製造もフル稼働で行われているものの、生乳をさばききれなくなっているという。

 これはこれで一つのナマモノの生産-消費の問題であろう。もっと言えばサプライチェーンにおいてボトルネックが存在することを示唆している。

 上記の報道に関連して複数のサイトなどで「保存の効くもの(例:バターやヨーグルト)の生産を増やせないのか」という指摘もある。これはこれで単純にはそうだが、実際にはサプライチェーンの問題なのでできない事情もあるのだろうな、と思っていた。

 この問題はフードロスなどの課題や、もっと端的には「もったいない」という感情的な問題も孕んでおり、そう簡単にはスッキリしていないようだ。

 やはり業界団体からは、こうした批判を避ける意味でも、反論記事が出ている。

 例えば「「余った生乳5000トンはバターにすれば廃棄せずに済むのに」乳業業界の回答とは?」「生乳5000トン廃棄問題、「みんなで飲む」より根本的な解決法とは」などである。

 既存サプライチェーンの処理量増加には諸問題がある(設備投資やリードタイム)ので、十分対策は打った上で、消費を増やして欲しい、というお願いなんですよ、という「説明」である。これはこれで事情としては理解はできる。

 ただ、それでもなお、私自身は釈然としないものがある。

 つまりこれらの主張全てに通じて言えることは、いわゆる「循環経済」の思考が欠落しており、部分最適な主張に止まっているということである。先進的なEUの動きを受けて、日本でもようやく「循環経済」が推進されている。これは、従来の大量生産、大量消費の一方向(動脈生産と言われる)な生産ー消費だけでなく、還流側(リサイクル、リユースなど)の思考を入れた静脈生産を実現する、というものである。日本でも経済産業省が「循環経済ビジョン2020」でこうした新たな産業の転換を提唱している。

 これをサプライチェーンに置き換えると、循環的なサプライチェーンにおいて、エネルギー最小化(=持続性を最大化)した制約条件の下で、最適化を動的に行うこと、と理解できる。要するに、これすなわち「スマート社会の実現」であろう。これはエモーショナルな「もったいない」ではなく、持続性を最大化するために、全体最適解を実行する、ということに他ならない。

 しかしながら、この牛乳廃棄をめぐる主張にはこうした意思とは全く逆行したものばかりが横行しているように思える。

 「もったいないので牛乳を飲んでくれ」という、特定商品について消費者に扇動的な形で負荷を押し付けるようなメッセージや、「業界は全てやることをやっている」という個別最適を実行したら責任がなくなるかのような自分本位の思考。さらには「牛乳の他の用途を考えるべき」みたいな消費拡大に全てを押し付ける単純思考。

 もしも「循環経済」を本当に実現したい、と考えるのであれば「全体最適解」を探すべきであり、そうした論調が見られないことに不思議な思いにとらわれている。

 特定商品の消費を、その都度の理由で扇動的にメッセージする意味は、今後も同様な事例においても同じことを繰り返すことを意味している。「〇〇が余ったので、今度はこれを消費してくれ」「次はこれ」といった、消費者を消費する機能としてしか使役しない感情すら垣間見える。

 業界団体は「自分たちは120%努力しているので、これ以上何をしろと?」という論調のみである。

 要するに当事者意識不在の状況の中で、一番単純な「消費」に全ての調整弁を押し付けるようなこの動き自体は、「循環経済」とは真っ向から矛盾していると思う。全体最適解は確かに苦しいことではある。感情論とは全く異なる解が最適である可能性もあるのだ。だが、それこそが、単なる「もったいない」からより高次な「持続性」へと探求する道筋であろう。

 こうした分裂的な主張が横行する中で、果たして我々は「循環経済」に向けて動けるのか、これは所詮ポーズにしか過ぎないのか?

 そもそも「循環経済」ということを目指していない、としてくれるならまだ納得もできるが、そうではないらしい。

 非常に暗い気持ちになるニュースであった。

 

Share

製造装置メーカやプラントメーカにとって複雑なサプライチェーンを重ね合わされた市場の”潜在ニーズ”を探るために:B2(B ^X )B2C=B2B2B2…B2Cのマーケティングとは

 先日読んだ、稲田将人「経営参謀」(日経ビジネス文庫)は、アパレル市場を舞台として経営戦略をテーマにした小説であるが、そこにおいて製品戦略のためには「マーケティング」が主な手法となることが描かれる。

 アパレルすなわちB2C市場なので、消費者の行動をヒアリングや面談などで聴取し、巧みな質問と分析によって明らかにしていく。これを感心して読んでいた。いわゆる「マーケットイン」の考え方であると理解している。

 ただ、最近のB2BあるいはB2Pと呼ばれているビジネスモデルではどうなのか?という疑問が湧いた。

 最終的には消費者(コンシューマのC)にたどり着くにせよ、その前段にある材料メーカや製造装置メーカなどサプライチェーン上流側にあるメーカにとって、同様にマーケティングをしようとした場合、非常に困難を感じる実感がある。

 特に製造装置メーカなどは、個別受注型モデルを選択することが多く、その結果として中期計画などが個々の顧客の”点”だけの繋がりになってしまう。逐次、中期計画の検証・修正をしようとしても毎年看板を掛け替えるだけになり、要するに行き当たりばったりの計画になってしまうことが多いように思える。

 身も蓋もない言い方をしてしまうと、”御用聞き”にとっては、中期計画も戦略も必要ないし、存在しないのである。

 だが、それでも会社の規模によっては経営企画部門があり、彼らは毎年一生懸命、中期計画や戦略を作ることになる。しかしこれは上記のように毎年無意味な徒労に終わることが多いようだ。

 確かに戦略自体も1次仮説であり、これを小さい範囲でPDCAを回して精度を上げれば良い。「経営参謀」に正しく書かれているように、それは理解している。

 だが、サプライチェーンが多重的に重なり、最終的な「ニーズ」や「進むべき方向」のコアがボカされた結果、目の前には”伝言ゲーム”で作られた、謎に広いニーズだけがある(以下の図式)。

 こんなものを前にして進むべき方向を作れ、と言われても厳しいのも事実なのである

 芯を食った「進むべき方向」など出てくるわけがないのである。

 ちなみに半導体業界などは巨大市場であるが故に、そんなことはなく、デバイスメーカと装置メーカが業界団体を作り、ロードマップそして規格を作ってきた。こうしたイニシアチブがある業界はむしろ例外である。

 こんな状況の中で、妥協的に考えて、経営企画的に行動すると、どうなるか。

 いわゆる「プロダクトアウト」になってしまうのである。

 強い自社技術を特定して、それを生かす市場の方を探しにいくという手法である。

 だが、これは経験上、上手く行かないことが多い。確かに上記のような目の前にある「市場」が広く、薄く、ぼんやりしている場合、唯一ロジカルに解を出したように見せられる方式である。経営層にも一応「納得」を感じさせられる、経営企画部門のテクニックとも言える。実際上手くいかなかった場合、技術力が足りなかったと技術サイドに責任転嫁できる狡い手法でもあるのだ。

 だが、B2Bにおいて「プロダクトアウト」方式は、それ自体は否定しないが、まぐれのホームラン狙いのような感じであることも確かである。そんなロジカルに解が出れば苦労しないのだ。

 実際に、その業界で勝っている(勝った)企業は、実は「プロダクトアウト」ではなく、「マーケットイン」で勝利しているように思う。やはりB2Cと同様に誰も見つけていない”真空市場”があり、”市場を作り出した”はずなのだ。そして、それは今この場でも「ある」はずなのである。

 しかし、多重に連鎖しているサプライチェーンが、B2Cでは可能だった市場分析の手法ができない、あるいは、そもそもシステムに存在する時定数の大きさ(遅れ要素)が、単純なマーケティング手法を適用できないという課題があるのである。

 ではそのB2B、あるいは、多層的B2B(B2(B ^X )B2C)において、市場の「潜在ニーズ」を特定するにはどうしたら良いのか。

 その答えはまだ私にはない。今もうんうん唸っているのである。

 

Share

【書評】稲田将人「経営参謀」科学的アプローチによる、戦略策定におけるおそらく唯一の”真実”

 稲田将人「経営参謀」(日経ビジネス文庫)を読んだ。いわゆるビジネス小説でありながら、経営再建のための戦略策定のための知見が詰まっている。

 少々個人的に身の回りの変化(【近況】異動になってしまった)もあり、身につまされる読書体験であった。

 小説の筋自体は、経営企画の主人公がアパレル業界に中途入社し、社長からブランドの建て直しを求められる。この会社は上場会社だが同族経営で、マネジメントに偏りがある。

 主人公は、マーケティング調査により市場動向をプロファイリングし、再建に向けての戦略を作り、徐々に成果を出しつつあった。この過程で、いわゆる「戦略理論」を主人公がケーススタディから学んでいくことになる。

 それと同時に小説としても、主人公の活躍に対する”妨害”などもあり、こちらの面白さもある。そして、その結末もなんとも「現実的」なのであり、味わい深い。

 本書ではあくまでB2Cの領域であるが、これはB2BやB2Pなどでも同様であろう。ただ、よりプロファイル的にはマーケットの考えの推定は難しくなりそうだ。

 実地体験でも、こうした「戦略」を作る、ということで現場はかなり混乱している。

 戦略を作れ、と言われてひたすら終わりなき調査作業だけを行う人間や、市場調査、ベンチマーク、知財戦略、差別化、SWOTなど、網羅的な完成品の「目次」を渡され、それを全部埋めろ、と言われていつまでたっても終わらない作業をしている人間など。

 混乱の極みになっている風景を良く見かける。

 これは戦略を作れ、と指示したマネジメントすらも何をオーダーしたか、何が出てくるかを具体的にイメージしていないのである。こうした無駄な作業が現場では起こっている。

 本書はそうした点から一線を画している。

 簡単に新市場などができる戦略のフレームワークなどない、と言い切るのである。

 この考えは事実であるし、悲しいかな、迷っている人々は残念なことに「フレームワークをくれ」としか考えていないのである。

 迷っている人の苦しみは想像できる。

 いわばドストエフスキーの長編小説を渡されて、「これみたいなやつを作れ」と言われているようなものなのだ。

 そんなのできるわけがない。

 小説だって、あらすじから肉付けしていって完成させるのに、いきなり長編の完成品を持ってこいと言われるのは酷である。だが、繰り返すが、指示する側も、戦略を作った経験もそもそもないので、どう指示して完成させるかの正解を持っていないのである(そして自分も正解を持っていないことは明らかにしないものである)。

 では何をすれば良いか。本書では、その回答も示唆されている。

 ”正確な事実によって現状を把握して戦略を作る”、そして、”戦略とは精度の高い初期仮説であって、これを早いPDCAサイクルで回して検証する”というシンプルなものである。まさに科学的アプローチそのものである。

Share

これは”ホテルあるある”なのか?クリーニング代370円を730円で請求されて、疑問を呈したら逆にフロントに食い下がられた話

 色々あって、最近ビジネスホテルに長期滞在していることが多くなった。

 QOLにとって問題なのは、やはり洗濯である。下着だけでなく、Yシャツなども大量に持っていく訳にもいかない。

 下着、靴下、ハンカチなどは、ホテルの部屋で洗濯し、部屋で干す。しかしアイロンが必要なYシャツはそうも行かないのでホテルのランドリーサービスに出す。

 朝出かける時にランドリーバッグに入れてフロントにお願いすると、夕方には特急でYシャツができている。割高ではあるが、これは納得である。ちなみに価格は370円である。

 実際地元で時間をかけていいなら100円台なので、割高だが当日特急ならばやむなしである。

 と思っていた。

 だが事態はなかなか更に上を行くもので、本日あった出来事はこうである。

 フロント「(Yシャツ1枚を返して、電卓を見せながら)730円です」

 ぼく「えっ」

 フロント「730円です」

 ぼく「(何かの間違いかもしれない)えーっと、たぶんその価格って違うんじゃないすかね」

 フロント「いえ、お客様、こちらが決めた料金でやらせていただいていますので」

 ぼく「(そうなんだ、でも昨日までは370円だったけど)でも、違うような」

 フロント「いえ、そうではなくて、お客様が出していただいた時点で価格はこちらで決めさせていただくので」

 ぼく「(そうなんだ、でも流石におかしいような気がする)いや、おかしいですよ」

 フロント「(向こうもちょっとキレて)伝票を見ていただければわかります通り(伝票を出す)」

 そして、そこには370円と書かれているのであった。

 おそらく超好意的に考えて、伝票を客側に見せているので、読み間違っていたのではないかと思うが。あるあるなのか?

 フロントからも謝罪されたので、まあ問題はなかった。私の財布も損はしていないので満足とすべきなのであろう。

 だが、この金額でやりとりしたこの「ラリー」のもやもやは解消されてはいない。向こうは私を「ホテルのクリーニング代は高いんですよ、発注後にそんなことを言われるのはおかしいですよ」と諌める、私は「いや、そんな議論はしてないんだけど」というすれ違い。これは、一体なんだったのであろうか。正直そこそこの格式あるホテルなのに。そんなに値切るクレーマーが多いのであろうか。

 そんなこんなで、今部屋で一人、ホテルにある「総支配人宛」の封筒を前に悩んでいるのである。フロントの実名もわかるし(思わず名札をチェックした)、どうしようかと。

 ここは関西であり、私も関西人であれば「おんどれ、支配人を呼んでこい!口だけではなく、謝罪と誠意を形でしめさんかい!何が謝罪になるのか己で考えんかい!」と交渉する流儀がデフォルトなのであろうが(スーパー偏見)、私にはそんな文化もないので、非常に悩ましいのである。

Share

【書評】岩井俊憲「人間関係が楽になるアドラーの教え」によるビジネスシーンでの負のスパイラルからの脱却のヒント

 岩井俊憲「人間関係が楽になるアドラーの教え」(だいわ文庫)を読んだ。

 ベストセラー「嫌われる勇気」などでアドラー心理学が話題になっていた。ただ、これをビジネス文脈まで拡張されると少々牽強付会というか、自己啓発チックな香りが漂うので敬遠していたのだが、この度必要に迫られ、読んでみた。

 ビジネスでもなんでも、うまくいっているうちは、好循環が回っているので少々の課題があっても勢いで何とかなるが、いったんそれが厳しい方向、退潮方向に進み始めると、今度は悪循環、すなわち負のスパイラルに陥る。そうなると、どんどん悪い方向に加速をつけて転がっていくことになる。

 組織もイナーシャ(慣性)があるので、いったん悪循環になると、その回転速度を遅らせ・停止させ・逆方向に回すということには非常なエネルギーを伴う。人間もそして組織も現状維持バイアスがあり、なかなか方針転換などもできないものである。

 具体的に、部門最適(個別最適)思考、部門間の壁による蛸壺思考、モチベーションの低下、足の引っ張り合いなどが起こり、いかに高性能エンジンを搭載しても、駆動伝達系の摩擦抵抗が大きいので、ほとんど摩擦熱に変わってしまい、有効な駆動力として使用されるのはほんのわずか。非常に効率(燃費)の悪いクルマのようなものなのである。

 しかし、再建・改善・改革という行為は、その経営者や一部の旗振り人間だけが偉そうに理想論を言っても効果はない。そもそもそれがわかっていれば、自力で改善できるのである。個々の人間も理解しているが、結果的には組織としては負のスパイラルになる。個人行動的に効用を重視した結果、全く意味のない結果を産んでいるのである。

 よって構成メンバの意識を、一つの目標に向かってベクトルを揃える必要がある。各自のベクトルが揃っていないということは、気体分子運動論のように、運動の方向を平均すると相殺してゼロ、マクロ的には「その場から動いていない」ということになってしまう。

 こうした目的から、再建のために構成員のマインドをまず変えることは非常に重要であり、こうした心理学的知見も援用する必要があるであろう。

 本書は「人間関係」に注目しているが、ビジネスシーンでも読み換えることができる。

 アドラー心理学では、外部環境は変えることができない前提条件とし、変えることができるのは「自分」「自分の行動」であるとする(自己決定性)。できない理由をつくり出す「原因論」ではなく、目標を決めて現在から未来への行動を建設的に考える「目的論」が重要であるとする(目的志向)。

 ビジネスシーンにおいても、

 「できない理由から入り、次から次へとできない理由を述べ続ける。また、自分でコントロールできない(環境要因)と、自分でコントロールできる要因の区別をせず議論する。そして、自分でコントロールできない要因を前提条件とせず、あくまでそれが目的を達成できない理由だと主張する」

 「過去の経緯(しかも属人的な理由が多い。権威のある誰々さんがこういった、など)を意思決定の材料とし、現在を起点に未来を考えることを避けたがる」

 「自己の既得権益にこだわるが、他人の既得権益については鈍感」

 などの例を想起し、これらは負のスパイラルのイナーシャそのものである。

 こうした事例からの脱却の直接的なヒントとして、アドラー心理学の示唆する「自己決定性」や「目的論」は有効であろう。

Share

【近況】異動になってしまった

 最近、身の回りに変化があった。

 具体的には「異動」である。異動自体はこれまでも何度もあって、最近では3年前だが、今回は比較的大きな環境変化を伴うものであった。

 業務内容は広義の「技術企画」と変わっていないのであるが、その対象が変わったという感じである。

 その結果、勤務地が変更になり、周囲の環境も変更になった。

 新しい環境、新しい人間関係、業務システム、全てを再構築である。

 おまけにコロナ禍でコミュニケーション手段の制限もある。

 その一方で、新しい職場では、よりフロントラインに近くなった。さらにより困難な環境になった。解決すべき課題は山積みで、しかも待ったなしの状況である。

 例えると、昭和20年8月前半くらいの日本のような状況である。もはや無理ゲーのような気もするが、「地には平和を」みたいなifもあるので。

 まあ今まで別の立場で、偉そうに遠くからアレコレ理想論を言ってたら「OKY」(=お前が・来て・やってみろ)になってしまったというべきなので、嘆いていても仕方がない側面もある。自分の蒔いた種というか、自業自得というか。

 ただ、自分の信条として、まっさらの雪に最初に足跡をつけるような新規環境、未踏の状況は嫌いではない(むしろそっちの方が好き)。さらに、苦しい環境の方が、最初からマイナスのスタートなので気楽と言えば気楽である(強がり含む)。

 経験は自分では選べない、というが、得難い経験をしていると思っている。だが、その結果として傷だらけにもなっているという昨今である。

 個人的にも厳しい状況ではあるが、製造業の立場からすると、マクロ的にみてバブル崩壊から次第に続いてきた「日本のものづくり」が直面する課題、すなわち”日本でものづくりをする意味があるのか?”という問いへの最終ジャッジポイント、瀬戸際だといえるのかもしれない。

 正攻法なものづくりは既に「過剰品質」のレッテルを貼られ、DXだ、UXだ、IoTだというバズワードだけはあるが、結局儲かっているのは”ツルハシビジネス”だけというこの状況(異論はあるはずだが、いまだに納得はいかない)。

 ゆでカエルになった日本の製造業にとって、この時点では”刀折れ矢尽き果て”という内部状況と思う。反転攻勢というのは簡単だが、そもそもその体力すら残っているのか?という絶望感すらある。

 だが、最後の正念場と思って、残り少ない知恵を絞ってやっていくしかないのである。

Share

相手の注文に正確に応えることの難しさ:上司に「ラーメン」を注文されて「寿司」を提供し続ける部下

 企画系の業務をしていて、噛み合っていないやりとりを良く見かける。

 「戦略シナリオ」案や、もう少し単純に「改善」案を、上司が部下に求めた場合に発生する収束しないキャッチボールのことである。

 回答に納得できない上司は、執拗に意図と違うことを説明し、提案を受領しない。

 部下は、否定された案を、上司の意向を考え、何度も修正・変更して提案する。
 
 お互い意図が伝わっていないのか、このキャッチボールが繰り返され、自然に”千本ノック”、あるいはちょっとした”マウントパンチ”の様相になってくる。要するに公開リンチのようになってしまうこともある。

 上司からすると”指導”なのだが、何度言っても一向に修正されない部下の態度にイラつきを覚え言葉も強くなる。部下にしてみると、出口のないただの言葉の暴力を受け続けるだけの単なるパワハラ的な印象を与えることになる。

 こうしてお互いが噛み合っていないまま、互いがひたすら不幸になっていくような風景が見られることがある。

 この「噛み合わなさ」は何なのか。もう少し掘り下げてみたい。

 第三者から見ると、以下のような単純化したやりとりになっているように思える。

 上司「ラーメンを作って欲しい。具はこうで、スープはこうで」
 部下「了解しました。作業にかかります」
 部下「できました。どうですか?」
 上司「いや、これ寿司でしょ。私はラーメンを注文したんだから」
 部下「・・・すいません。ちょっと誤解があったようです」
 部下「できました。ラーメンです」
 上司「いや、だから、これ寿司でしょ」
 部下「・・・・」

 この構図では、実際に第三者がみて、部下が作ったのが寿司なのかラーメンなのかは問題の本質ではなく、お互いにある料理の実体に対する認識が異なっており、その違うことを理解しないまま一応会話だけは進んでしまっている。

 では、最初にお互いにラーメンと称するものはこれだ、と、前提条件と定義をきちんと合意した上で業務を進めれば、この問題は解決するのであろうか。

 実際の現場では更に、もう一段複雑なすれ違いも起こっている。

 それは、上司が求めているのは「結論を導き出したロジック(論理)」であるにもかかわらず、部下が提出するのは「上司の心の中にある結論」となった場合のすれ違いである。

 これは更に根が深く、上記の事例のような前提条件を定義すれば解決できる問題ではなく、業務に対する基本的姿勢の違いに相当する本質的な問題である。

 上司の頭の中には想定された結論は確かに存在する。

 だが、それを部下に当てて欲しい訳ではない。

 もう少し大胆にいうと、その”結論”は直感で導き出されたものかもしれない。自分の経験や勘で導き出されたものかもしれない。

 いわば帰納的でも演繹的でもなく、先験的かつ超越論的に導出されたものなのである。

 繰り返しになるが、その正解を部下に当てて欲しい訳ではなく、むしろその正しさの論理的検証をして欲しい、あるいはより論理的にリーズナブルな解があるならその指摘をした上で、乗り換えるかどうかを判断したい、というのがこの「注文」の本質なのである。

 むしろ結論を考えるのは自分であって、それは部下には求めていない。それを当ててもらっても、むしろ心理的には反感も生まれる。

 だが、地位などのバイアスがかかった部下は、上司の心の中にある「結論の正解」を当てようとしがちである。その結果、論理ではなく、相手の感情に支配されることになる。

 最終的には「上司の結論と私の結論が一致しているんだから、それ以上何が問題があるのか?」という怒りすら部下は覚える。結論当てゲームに既に正解しているのに、まだしつこくグチグチと言っている上司に不信感を覚えるのである。

 結局、上司は「論理」を注文しているのに、部下は「結論」を提供するという、先程と同様の噛み合っていない構図が現れている。

 ここで更にバイアスを生んでいるのは、特に部下のもつ「絶対的正しさへの過剰な欲求」であろう。

 誰しも上司の前で間違いたくはない。

 だが、正しさとは相対的なものであり、固定されたものではない、という認識をなかなか持ちにくいものだ。特に会社組織のような、政治的、権力的なバイアスが常にかかっている場合には尚更であろう。
 
 それでも論理に必要なのは「首尾一貫していること」「論理的に整合して矛盾のないこと」である。従って、その要件を満たしていれば、複数の解(結論)がありうるし、その解(結論)同士が対立することも許容される。

 そして論理自体は玉ねぎのような階層的構造になっており、更に上位の論理が下位の論理を包含して乗り越える構造になっている。下位の階層の論理は、上位の階層の論理によって優越される。

 論理を注文する人は、ある意味「論理に殉じる」覚悟を決めているのであって、より論理的に正しければ、自分の感情とは無関係にそちらに乗り換える(意見を変える)ことも躊躇なく行う用意があるのである。そのための判断材料が欲しいのだ。

 そして、論理的な正しさこそが、組織において他者を動かす根拠(の一つ)になりうる。より論理的に正しい、より上位階層の論理である方が、他者を動かす説得力になるのである。それが故に、より論理的に正しい結論を組織においては欲するのである。

 もちろん、それらが最終的に感情や政治の力によって全く異なる別の答えになる(いわゆる”神の声”)こともあるが、それはまた別次元の話である。この神の声が全てであれば、トップ以外はただのロボットで済んでしまう。

 その意味で、納品すべきは「論理」なのであるが、納品されるのが「結論」となってしまい、終わりないマウントポジションからのパンチ連打の光景になるのは、見ていて辛いものがある。

Share

緊急事態宣言解除直後から、早々にテレワークをギブアップして自ら出社を希望する層が出てきている

 2021年1月に再び発令された「緊急事態宣言」は3月21日に解除された。私もテレワークであまり会社に行くことはなかったが、少しずつ戻る方向になりつつある。

 今回の緊急事態宣言に伴うテレワーク推進あるいは行動の抑制に関して、前回のような緊張感が少し薄れているようだ。経済活動との相反も指摘されることも相まって、実感としても前回より個人に与える精神的影響が大きかったように思える。

 具体的には、早々に「テレワークだと仕事が回らない、出社したい」という声が多く出てきたことである。

 前回よりもインフラや業務ツールは充実しており、業務環境としてはよりテレワークしやすいにもかかわらずである。

 前回同様に「現場」がある部門から当然そうした声が上がるのは理解でき、こうした配慮はしているのであるが、今回は、「現場」がないはずの事務屋、管理屋から多くその声が上がってきたことが予想外であった。

 つまり本来調整や管理をする業務、つまり、テレワークにもっとも親和性のある(と思われていた)はずの部門の「ある階層」から、早々に「このままでは仕事の効率が極めて落ちますので、出社したいです」というあからさまなギブアップ宣言が相次いだのである。

 そしてこの声は、むしろデジタル化に対応できないと思われる高齢の窓際世代ではなく、実務を担う中堅層から出ているのが、更に不審であった。

 実際、皮肉なことに、窓際というか”飾り”の高齢世代は、実は意外にもテレワークを歓迎しているのである。会社にいても用事も多くないし、周囲もかまってくれないので、むしろプライベートと近い環境の方が良いというのが本音なのであろう。これはある意味Win-Winな姿であろう。

 だが、こうした歓迎される世代と裏腹に、実際に調整作業や企画管理する部門、テレビ会議などで十分それが果たせそうと思われていた世代が、実は「フェイスツーフェイスで話をしないと、仕事が進みません。業務効率が落ちます」という状況に陥っているのが印象的であった。

 確かに、権力があれば別だが、そうではない場合、他者への説得や交渉では、ある種の「迫力」「熱量」がないとダメで、テレビ会議ではやはり「情熱」や「気合」などが表現することに限界がある、ということなのであろう。やはり、そうしたアナログな要素が現実の仕事を回していたということなのであろうか。

 しかし、これまでの「常識」からすると本来「現場」とはみなされていなかった事務屋の一部に、フィジカルな世界の必要性がわかったことはダメージを受けつつも勉強にはなった。

 今でもほんまかいな、とは思っているが。

 まあ、私自身はすでにかなり「窓」に近いので、「これからも基本テレワークでお願いします」と言われたばかりなのであるが・・・・。

Share