製造装置メーカやプラントメーカにとって複雑なサプライチェーンを重ね合わされた市場の”潜在ニーズ”を探るために:B2(B ^X )B2C=B2B2B2…B2Cのマーケティングとは

 先日読んだ、稲田将人「経営参謀」(日経ビジネス文庫)は、アパレル市場を舞台として経営戦略をテーマにした小説であるが、そこにおいて製品戦略のためには「マーケティング」が主な手法となることが描かれる。

 アパレルすなわちB2C市場なので、消費者の行動をヒアリングや面談などで聴取し、巧みな質問と分析によって明らかにしていく。これを感心して読んでいた。いわゆる「マーケットイン」の考え方であると理解している。

 ただ、最近のB2BあるいはB2Pと呼ばれているビジネスモデルではどうなのか?という疑問が湧いた。

 最終的には消費者(コンシューマのC)にたどり着くにせよ、その前段にある材料メーカや製造装置メーカなどサプライチェーン上流側にあるメーカにとって、同様にマーケティングをしようとした場合、非常に困難を感じる実感がある。

 特に製造装置メーカなどは、個別受注型モデルを選択することが多く、その結果として中期計画などが個々の顧客の”点”だけの繋がりになってしまう。逐次、中期計画の検証・修正をしようとしても毎年看板を掛け替えるだけになり、要するに行き当たりばったりの計画になってしまうことが多いように思える。

 身も蓋もない言い方をしてしまうと、”御用聞き”にとっては、中期計画も戦略も必要ないし、存在しないのである。

 だが、それでも会社の規模によっては経営企画部門があり、彼らは毎年一生懸命、中期計画や戦略を作ることになる。しかしこれは上記のように毎年無意味な徒労に終わることが多いようだ。

 確かに戦略自体も1次仮説であり、これを小さい範囲でPDCAを回して精度を上げれば良い。「経営参謀」に正しく書かれているように、それは理解している。

 だが、サプライチェーンが多重的に重なり、最終的な「ニーズ」や「進むべき方向」のコアがボカされた結果、目の前には”伝言ゲーム”で作られた、謎に広いニーズだけがある(以下の図式)。

 こんなものを前にして進むべき方向を作れ、と言われても厳しいのも事実なのである

 芯を食った「進むべき方向」など出てくるわけがないのである。

 ちなみに半導体業界などは巨大市場であるが故に、そんなことはなく、デバイスメーカと装置メーカが業界団体を作り、ロードマップそして規格を作ってきた。こうしたイニシアチブがある業界はむしろ例外である。

 こんな状況の中で、妥協的に考えて、経営企画的に行動すると、どうなるか。

 いわゆる「プロダクトアウト」になってしまうのである。

 強い自社技術を特定して、それを生かす市場の方を探しにいくという手法である。

 だが、これは経験上、上手く行かないことが多い。確かに上記のような目の前にある「市場」が広く、薄く、ぼんやりしている場合、唯一ロジカルに解を出したように見せられる方式である。経営層にも一応「納得」を感じさせられる、経営企画部門のテクニックとも言える。実際上手くいかなかった場合、技術力が足りなかったと技術サイドに責任転嫁できる狡い手法でもあるのだ。

 だが、B2Bにおいて「プロダクトアウト」方式は、それ自体は否定しないが、まぐれのホームラン狙いのような感じであることも確かである。そんなロジカルに解が出れば苦労しないのだ。

 実際に、その業界で勝っている(勝った)企業は、実は「プロダクトアウト」ではなく、「マーケットイン」で勝利しているように思う。やはりB2Cと同様に誰も見つけていない”真空市場”があり、”市場を作り出した”はずなのだ。そして、それは今この場でも「ある」はずなのである。

 しかし、多重に連鎖しているサプライチェーンが、B2Cでは可能だった市場分析の手法ができない、あるいは、そもそもシステムに存在する時定数の大きさ(遅れ要素)が、単純なマーケティング手法を適用できないという課題があるのである。

 ではそのB2B、あるいは、多層的B2B(B2(B ^X )B2C)において、市場の「潜在ニーズ」を特定するにはどうしたら良いのか。

 その答えはまだ私にはない。今もうんうん唸っているのである。

 

Share

【書評】稲田将人「経営参謀」科学的アプローチによる、戦略策定におけるおそらく唯一の”真実”

 稲田将人「経営参謀」(日経ビジネス文庫)を読んだ。いわゆるビジネス小説でありながら、経営再建のための戦略策定のための知見が詰まっている。

 少々個人的に身の回りの変化(【近況】異動になってしまった)もあり、身につまされる読書体験であった。

 小説の筋自体は、経営企画の主人公がアパレル業界に中途入社し、社長からブランドの建て直しを求められる。この会社は上場会社だが同族経営で、マネジメントに偏りがある。

 主人公は、マーケティング調査により市場動向をプロファイリングし、再建に向けての戦略を作り、徐々に成果を出しつつあった。この過程で、いわゆる「戦略理論」を主人公がケーススタディから学んでいくことになる。

 それと同時に小説としても、主人公の活躍に対する”妨害”などもあり、こちらの面白さもある。そして、その結末もなんとも「現実的」なのであり、味わい深い。

 本書ではあくまでB2Cの領域であるが、これはB2BやB2Pなどでも同様であろう。ただ、よりプロファイル的にはマーケットの考えの推定は難しくなりそうだ。

 実地体験でも、こうした「戦略」を作る、ということで現場はかなり混乱している。

 戦略を作れ、と言われてひたすら終わりなき調査作業だけを行う人間や、市場調査、ベンチマーク、知財戦略、差別化、SWOTなど、網羅的な完成品の「目次」を渡され、それを全部埋めろ、と言われていつまでたっても終わらない作業をしている人間など。

 混乱の極みになっている風景を良く見かける。

 これは戦略を作れ、と指示したマネジメントすらも何をオーダーしたか、何が出てくるかを具体的にイメージしていないのである。こうした無駄な作業が現場では起こっている。

 本書はそうした点から一線を画している。

 簡単に新市場などができる戦略のフレームワークなどない、と言い切るのである。

 この考えは事実であるし、悲しいかな、迷っている人々は残念なことに「フレームワークをくれ」としか考えていないのである。

 迷っている人の苦しみは想像できる。

 いわばドストエフスキーの長編小説を渡されて、「これみたいなやつを作れ」と言われているようなものなのだ。

 そんなのできるわけがない。

 小説だって、あらすじから肉付けしていって完成させるのに、いきなり長編の完成品を持ってこいと言われるのは酷である。だが、繰り返すが、指示する側も、戦略を作った経験もそもそもないので、どう指示して完成させるかの正解を持っていないのである(そして自分も正解を持っていないことは明らかにしないものである)。

 では何をすれば良いか。本書では、その回答も示唆されている。

 ”正確な事実によって現状を把握して戦略を作る”、そして、”戦略とは精度の高い初期仮説であって、これを早いPDCAサイクルで回して検証する”というシンプルなものである。まさに科学的アプローチそのものである。

Share

これは”ホテルあるある”なのか?クリーニング代370円を730円で請求されて、疑問を呈したら逆にフロントに食い下がられた話

 色々あって、最近ビジネスホテルに長期滞在していることが多くなった。

 QOLにとって問題なのは、やはり洗濯である。下着だけでなく、Yシャツなども大量に持っていく訳にもいかない。

 下着、靴下、ハンカチなどは、ホテルの部屋で洗濯し、部屋で干す。しかしアイロンが必要なYシャツはそうも行かないのでホテルのランドリーサービスに出す。

 朝出かける時にランドリーバッグに入れてフロントにお願いすると、夕方には特急でYシャツができている。割高ではあるが、これは納得である。ちなみに価格は370円である。

 実際地元で時間をかけていいなら100円台なので、割高だが当日特急ならばやむなしである。

 と思っていた。

 だが事態はなかなか更に上を行くもので、本日あった出来事はこうである。

 フロント「(Yシャツ1枚を返して、電卓を見せながら)730円です」

 ぼく「えっ」

 フロント「730円です」

 ぼく「(何かの間違いかもしれない)えーっと、たぶんその価格って違うんじゃないすかね」

 フロント「いえ、お客様、こちらが決めた料金でやらせていただいていますので」

 ぼく「(そうなんだ、でも昨日までは370円だったけど)でも、違うような」

 フロント「いえ、そうではなくて、お客様が出していただいた時点で価格はこちらで決めさせていただくので」

 ぼく「(そうなんだ、でも流石におかしいような気がする)いや、おかしいですよ」

 フロント「(向こうもちょっとキレて)伝票を見ていただければわかります通り(伝票を出す)」

 そして、そこには370円と書かれているのであった。

 おそらく超好意的に考えて、伝票を客側に見せているので、読み間違っていたのではないかと思うが。あるあるなのか?

 フロントからも謝罪されたので、まあ問題はなかった。私の財布も損はしていないので満足とすべきなのであろう。

 だが、この金額でやりとりしたこの「ラリー」のもやもやは解消されてはいない。向こうは私を「ホテルのクリーニング代は高いんですよ、発注後にそんなことを言われるのはおかしいですよ」と諌める、私は「いや、そんな議論はしてないんだけど」というすれ違い。これは、一体なんだったのであろうか。正直そこそこの格式あるホテルなのに。そんなに値切るクレーマーが多いのであろうか。

 そんなこんなで、今部屋で一人、ホテルにある「総支配人宛」の封筒を前に悩んでいるのである。フロントの実名もわかるし(思わず名札をチェックした)、どうしようかと。

 ここは関西であり、私も関西人であれば「おんどれ、支配人を呼んでこい!口だけではなく、謝罪と誠意を形でしめさんかい!何が謝罪になるのか己で考えんかい!」と交渉する流儀がデフォルトなのであろうが(スーパー偏見)、私にはそんな文化もないので、非常に悩ましいのである。

Share

【書評】岩井俊憲「人間関係が楽になるアドラーの教え」によるビジネスシーンでの負のスパイラルからの脱却のヒント

 岩井俊憲「人間関係が楽になるアドラーの教え」(だいわ文庫)を読んだ。

 ベストセラー「嫌われる勇気」などでアドラー心理学が話題になっていた。ただ、これをビジネス文脈まで拡張されると少々牽強付会というか、自己啓発チックな香りが漂うので敬遠していたのだが、この度必要に迫られ、読んでみた。

 ビジネスでもなんでも、うまくいっているうちは、好循環が回っているので少々の課題があっても勢いで何とかなるが、いったんそれが厳しい方向、退潮方向に進み始めると、今度は悪循環、すなわち負のスパイラルに陥る。そうなると、どんどん悪い方向に加速をつけて転がっていくことになる。

 組織もイナーシャ(慣性)があるので、いったん悪循環になると、その回転速度を遅らせ・停止させ・逆方向に回すということには非常なエネルギーを伴う。人間もそして組織も現状維持バイアスがあり、なかなか方針転換などもできないものである。

 具体的に、部門最適(個別最適)思考、部門間の壁による蛸壺思考、モチベーションの低下、足の引っ張り合いなどが起こり、いかに高性能エンジンを搭載しても、駆動伝達系の摩擦抵抗が大きいので、ほとんど摩擦熱に変わってしまい、有効な駆動力として使用されるのはほんのわずか。非常に効率(燃費)の悪いクルマのようなものなのである。

 しかし、再建・改善・改革という行為は、その経営者や一部の旗振り人間だけが偉そうに理想論を言っても効果はない。そもそもそれがわかっていれば、自力で改善できるのである。個々の人間も理解しているが、結果的には組織としては負のスパイラルになる。個人行動的に効用を重視した結果、全く意味のない結果を産んでいるのである。

 よって構成メンバの意識を、一つの目標に向かってベクトルを揃える必要がある。各自のベクトルが揃っていないということは、気体分子運動論のように、運動の方向を平均すると相殺してゼロ、マクロ的には「その場から動いていない」ということになってしまう。

 こうした目的から、再建のために構成員のマインドをまず変えることは非常に重要であり、こうした心理学的知見も援用する必要があるであろう。

 本書は「人間関係」に注目しているが、ビジネスシーンでも読み換えることができる。

 アドラー心理学では、外部環境は変えることができない前提条件とし、変えることができるのは「自分」「自分の行動」であるとする(自己決定性)。できない理由をつくり出す「原因論」ではなく、目標を決めて現在から未来への行動を建設的に考える「目的論」が重要であるとする(目的志向)。

 ビジネスシーンにおいても、

 「できない理由から入り、次から次へとできない理由を述べ続ける。また、自分でコントロールできない(環境要因)と、自分でコントロールできる要因の区別をせず議論する。そして、自分でコントロールできない要因を前提条件とせず、あくまでそれが目的を達成できない理由だと主張する」

 「過去の経緯(しかも属人的な理由が多い。権威のある誰々さんがこういった、など)を意思決定の材料とし、現在を起点に未来を考えることを避けたがる」

 「自己の既得権益にこだわるが、他人の既得権益については鈍感」

 などの例を想起し、これらは負のスパイラルのイナーシャそのものである。

 こうした事例からの脱却の直接的なヒントとして、アドラー心理学の示唆する「自己決定性」や「目的論」は有効であろう。

Share

【近況】異動になってしまった

 最近、身の回りに変化があった。

 具体的には「異動」である。異動自体はこれまでも何度もあって、最近では3年前だが、今回は比較的大きな環境変化を伴うものであった。

 業務内容は広義の「技術企画」と変わっていないのであるが、その対象が変わったという感じである。

 その結果、勤務地が変更になり、周囲の環境も変更になった。

 新しい環境、新しい人間関係、業務システム、全てを再構築である。

 おまけにコロナ禍でコミュニケーション手段の制限もある。

 その一方で、新しい職場では、よりフロントラインに近くなった。さらにより困難な環境になった。解決すべき課題は山積みで、しかも待ったなしの状況である。

 例えると、昭和20年8月前半くらいの日本のような状況である。もはや無理ゲーのような気もするが、「地には平和を」みたいなifもあるので。

 まあ今まで別の立場で、偉そうに遠くからアレコレ理想論を言ってたら「OKY」(=お前が・来て・やってみろ)になってしまったというべきなので、嘆いていても仕方がない側面もある。自分の蒔いた種というか、自業自得というか。

 ただ、自分の信条として、まっさらの雪に最初に足跡をつけるような新規環境、未踏の状況は嫌いではない(むしろそっちの方が好き)。さらに、苦しい環境の方が、最初からマイナスのスタートなので気楽と言えば気楽である(強がり含む)。

 経験は自分では選べない、というが、得難い経験をしていると思っている。だが、その結果として傷だらけにもなっているという昨今である。

 個人的にも厳しい状況ではあるが、製造業の立場からすると、マクロ的にみてバブル崩壊から次第に続いてきた「日本のものづくり」が直面する課題、すなわち”日本でものづくりをする意味があるのか?”という問いへの最終ジャッジポイント、瀬戸際だといえるのかもしれない。

 正攻法なものづくりは既に「過剰品質」のレッテルを貼られ、DXだ、UXだ、IoTだというバズワードだけはあるが、結局儲かっているのは”ツルハシビジネス”だけというこの状況(異論はあるはずだが、いまだに納得はいかない)。

 ゆでカエルになった日本の製造業にとって、この時点では”刀折れ矢尽き果て”という内部状況と思う。反転攻勢というのは簡単だが、そもそもその体力すら残っているのか?という絶望感すらある。

 だが、最後の正念場と思って、残り少ない知恵を絞ってやっていくしかないのである。

Share

相手の注文に正確に応えることの難しさ:上司に「ラーメン」を注文されて「寿司」を提供し続ける部下

 企画系の業務をしていて、噛み合っていないやりとりを良く見かける。

 「戦略シナリオ」案や、もう少し単純に「改善」案を、上司が部下に求めた場合に発生する収束しないキャッチボールのことである。

 回答に納得できない上司は、執拗に意図と違うことを説明し、提案を受領しない。

 部下は、否定された案を、上司の意向を考え、何度も修正・変更して提案する。
 
 お互い意図が伝わっていないのか、このキャッチボールが繰り返され、自然に”千本ノック”、あるいはちょっとした”マウントパンチ”の様相になってくる。要するに公開リンチのようになってしまうこともある。

 上司からすると”指導”なのだが、何度言っても一向に修正されない部下の態度にイラつきを覚え言葉も強くなる。部下にしてみると、出口のないただの言葉の暴力を受け続けるだけの単なるパワハラ的な印象を与えることになる。

 こうしてお互いが噛み合っていないまま、互いがひたすら不幸になっていくような風景が見られることがある。

 この「噛み合わなさ」は何なのか。もう少し掘り下げてみたい。

 第三者から見ると、以下のような単純化したやりとりになっているように思える。

 上司「ラーメンを作って欲しい。具はこうで、スープはこうで」
 部下「了解しました。作業にかかります」
 部下「できました。どうですか?」
 上司「いや、これ寿司でしょ。私はラーメンを注文したんだから」
 部下「・・・すいません。ちょっと誤解があったようです」
 部下「できました。ラーメンです」
 上司「いや、だから、これ寿司でしょ」
 部下「・・・・」

 この構図では、実際に第三者がみて、部下が作ったのが寿司なのかラーメンなのかは問題の本質ではなく、お互いにある料理の実体に対する認識が異なっており、その違うことを理解しないまま一応会話だけは進んでしまっている。

 では、最初にお互いにラーメンと称するものはこれだ、と、前提条件と定義をきちんと合意した上で業務を進めれば、この問題は解決するのであろうか。

 実際の現場では更に、もう一段複雑なすれ違いも起こっている。

 それは、上司が求めているのは「結論を導き出したロジック(論理)」であるにもかかわらず、部下が提出するのは「上司の心の中にある結論」となった場合のすれ違いである。

 これは更に根が深く、上記の事例のような前提条件を定義すれば解決できる問題ではなく、業務に対する基本的姿勢の違いに相当する本質的な問題である。

 上司の頭の中には想定された結論は確かに存在する。

 だが、それを部下に当てて欲しい訳ではない。

 もう少し大胆にいうと、その”結論”は直感で導き出されたものかもしれない。自分の経験や勘で導き出されたものかもしれない。

 いわば帰納的でも演繹的でもなく、先験的かつ超越論的に導出されたものなのである。

 繰り返しになるが、その正解を部下に当てて欲しい訳ではなく、むしろその正しさの論理的検証をして欲しい、あるいはより論理的にリーズナブルな解があるならその指摘をした上で、乗り換えるかどうかを判断したい、というのがこの「注文」の本質なのである。

 むしろ結論を考えるのは自分であって、それは部下には求めていない。それを当ててもらっても、むしろ心理的には反感も生まれる。

 だが、地位などのバイアスがかかった部下は、上司の心の中にある「結論の正解」を当てようとしがちである。その結果、論理ではなく、相手の感情に支配されることになる。

 最終的には「上司の結論と私の結論が一致しているんだから、それ以上何が問題があるのか?」という怒りすら部下は覚える。結論当てゲームに既に正解しているのに、まだしつこくグチグチと言っている上司に不信感を覚えるのである。

 結局、上司は「論理」を注文しているのに、部下は「結論」を提供するという、先程と同様の噛み合っていない構図が現れている。

 ここで更にバイアスを生んでいるのは、特に部下のもつ「絶対的正しさへの過剰な欲求」であろう。

 誰しも上司の前で間違いたくはない。

 だが、正しさとは相対的なものであり、固定されたものではない、という認識をなかなか持ちにくいものだ。特に会社組織のような、政治的、権力的なバイアスが常にかかっている場合には尚更であろう。
 
 それでも論理に必要なのは「首尾一貫していること」「論理的に整合して矛盾のないこと」である。従って、その要件を満たしていれば、複数の解(結論)がありうるし、その解(結論)同士が対立することも許容される。

 そして論理自体は玉ねぎのような階層的構造になっており、更に上位の論理が下位の論理を包含して乗り越える構造になっている。下位の階層の論理は、上位の階層の論理によって優越される。

 論理を注文する人は、ある意味「論理に殉じる」覚悟を決めているのであって、より論理的に正しければ、自分の感情とは無関係にそちらに乗り換える(意見を変える)ことも躊躇なく行う用意があるのである。そのための判断材料が欲しいのだ。

 そして、論理的な正しさこそが、組織において他者を動かす根拠(の一つ)になりうる。より論理的に正しい、より上位階層の論理である方が、他者を動かす説得力になるのである。それが故に、より論理的に正しい結論を組織においては欲するのである。

 もちろん、それらが最終的に感情や政治の力によって全く異なる別の答えになる(いわゆる”神の声”)こともあるが、それはまた別次元の話である。この神の声が全てであれば、トップ以外はただのロボットで済んでしまう。

 その意味で、納品すべきは「論理」なのであるが、納品されるのが「結論」となってしまい、終わりないマウントポジションからのパンチ連打の光景になるのは、見ていて辛いものがある。

Share

緊急事態宣言解除直後から、早々にテレワークをギブアップして自ら出社を希望する層が出てきている

 2021年1月に再び発令された「緊急事態宣言」は3月21日に解除された。私もテレワークであまり会社に行くことはなかったが、少しずつ戻る方向になりつつある。

 今回の緊急事態宣言に伴うテレワーク推進あるいは行動の抑制に関して、前回のような緊張感が少し薄れているようだ。経済活動との相反も指摘されることも相まって、実感としても前回より個人に与える精神的影響が大きかったように思える。

 具体的には、早々に「テレワークだと仕事が回らない、出社したい」という声が多く出てきたことである。

 前回よりもインフラや業務ツールは充実しており、業務環境としてはよりテレワークしやすいにもかかわらずである。

 前回同様に「現場」がある部門から当然そうした声が上がるのは理解でき、こうした配慮はしているのであるが、今回は、「現場」がないはずの事務屋、管理屋から多くその声が上がってきたことが予想外であった。

 つまり本来調整や管理をする業務、つまり、テレワークにもっとも親和性のある(と思われていた)はずの部門の「ある階層」から、早々に「このままでは仕事の効率が極めて落ちますので、出社したいです」というあからさまなギブアップ宣言が相次いだのである。

 そしてこの声は、むしろデジタル化に対応できないと思われる高齢の窓際世代ではなく、実務を担う中堅層から出ているのが、更に不審であった。

 実際、皮肉なことに、窓際というか”飾り”の高齢世代は、実は意外にもテレワークを歓迎しているのである。会社にいても用事も多くないし、周囲もかまってくれないので、むしろプライベートと近い環境の方が良いというのが本音なのであろう。これはある意味Win-Winな姿であろう。

 だが、こうした歓迎される世代と裏腹に、実際に調整作業や企画管理する部門、テレビ会議などで十分それが果たせそうと思われていた世代が、実は「フェイスツーフェイスで話をしないと、仕事が進みません。業務効率が落ちます」という状況に陥っているのが印象的であった。

 確かに、権力があれば別だが、そうではない場合、他者への説得や交渉では、ある種の「迫力」「熱量」がないとダメで、テレビ会議ではやはり「情熱」や「気合」などが表現することに限界がある、ということなのであろう。やはり、そうしたアナログな要素が現実の仕事を回していたということなのであろうか。

 しかし、これまでの「常識」からすると本来「現場」とはみなされていなかった事務屋の一部に、フィジカルな世界の必要性がわかったことはダメージを受けつつも勉強にはなった。

 今でもほんまかいな、とは思っているが。

 まあ、私自身はすでにかなり「窓」に近いので、「これからも基本テレワークでお願いします」と言われたばかりなのであるが・・・・。

Share

第二次テレワークの開始-テレワークメインとなった世界での成果評価において、「過程」をどう評価するか/してもらうかについて

 首都圏の二回目の緊急事態宣言を受けて、やや遅ればせながらも私も再度のテレワーク(在宅勤務)に突入である。

 先週はその準備のため出社したが、あまり電車は空いている感じはなかった。やはり様々な事情を抱えている中で、世の中、急にハンドルはきれないという感じなのであろうか。

 前回の経験もあるし、物資(インフラ)は市場にある。なので快適に過ごすための手段系は色々準備ができる程度の経験値は蓄積できたつもりである。

 今回準備したのは①サーモスのタンブラー②耳へソフトタッチするヘッドセット③ペットボトルのお茶500mLを箱買い④マルチビタミンサプリ、である。

 とはいえ、再び出張などの人間の物理的移動はしずらい状況になってしまっており、その中でも仕事を前に進めるための知恵も出して行かなくてはいけない。

 テレワークという各自が潜航して作業をすることになるため合意形成なども難しくなる。個々人が今までと異なる思考で、仕事を回して行かないと”業務トリアージ”の状況の中で、”あいつ、そういえば最近見ないな?いたっけ?”のように、在宅の中で存在そのものが埋没してしまうことにもなりかねない。

 要するに、個人が評価される場合にも、「汗をかく姿」をテレワークでどう見せるかというテクニックも新たに出てくるわけである。

 これまではリアルな姿を見せて、業務プロセスとして「成果は出なかったけど、過程での努力は認める」なんてこともできた。それに基づくテクニックも各自持っていたはずなのである。

 しかし在宅メインになると、息を止めて潜航しつつ業務をし、時々息継ぎするため浮上するようなものなので「成果に至るプロセス」が見えづらくなる。

 こうなると「努力」の姿をどう見せるかが悩ましいことになってくるのであろう。もちろん結果が全てで、ゼロイチで割り切れればそれでも良いのだが、そんなドライに評価を下せる訳もない。

 「過程」を「家庭」で、どうやって見せるかが、これからのビジネスシーンで重要になってくるのではなかろうか。

Share

わざと荒れ球を投げ込んで相手の意思の許容範囲を探るのは、やめた方が良いと思う理由

 組織の中で仕事をするということは、多様な人間が複雑に絡み合う状態で、情報を整理し、意思決定し、実行に移すということである、と言い換えることができる。 

 いま多様な人間と書いたが、構成要員全員が自分と同じ情報、価値観、意思決定基準、アルゴリズムをもっているとすれば、個々人の集合体としての組織活動を統合することは容易なことであろう。

 しかし、現実はそうではなく、構成員それぞれは、自分とは異なる情報、 価値観などを有している。 

 誰もが同じように「自分以外の人間が、自分と同じ価値観なら良かったのだが、そうではなくて、誰もが自分とは異なる」という意識を抱えながら日々行動しているので、更に話は複雑になる。 

 ヒエラルキー組織においては、特に自分にとって上位の人間の「意思」を慮ることが重要であろう。 

 つまり、”自分の上司が何を考えているか”を推測することが重要なのである。 

 もちろん直接聞けばよいのだが、実際に全ての細かい判断ポイントまで聞いている時間もないし、それらをいちいち聞いていたら自分の存在価値すらなくなってしまう。 

 なので、大なり小なり、このケースについては上司ならこう判断するだろう、この判断なら間違いとは言われないであろうという推測をしつつ行動する。そして重要なポイントでは、やはり上司に念のため確認をとる、ということになる。 

 上司目線からすると、何も言わずとも自分の思い通りに判断してくれる部下は使いやすい。逆にいつまで経ってもなんでもかんでも聞いてくる部下は、やはりその能力に疑問を持つであろう。 

 こうして整理してみると、上司の意思、あるいは、上司が設定した部門の方針に対して、自分の判断基準がシンクロさえしていれば、個々のメンバはいちいち悩んだり確認する時間は不要になることになる。 

 言い換えると、上司への”シンクロ率”が高い人間=上司から見て”気の利いた奴”と思われるのであろう。 

 シンクロ率とは、結局この組織としての行動原理をいかに自分の内部に作り上げるのか、ということである。

 その上司の判断にしても、さらにその上の上司の判断を見据えて判断しているる。そうした階層を上位にさかのぼると、組織行動および組織判断基準の原理 というものを体得する能力、それがシンクロ率の本質なのではないかと思う。 

 それができなくなった場合、特にゼロベースで相手の意思を探る場合には、どうすればよいか。 

 一つの手段としては、上司の気持ちを推量するために、わざと荒れ球を投げて「それは違う」「ちょっとあっている」のような応答によって感触を探っていく行動をとることもある。 いわばブラックボックスに対して、外部からの入力によってその応答特性を推定する行為に似ている。

 ただし目的は相手の意思決定の”範囲”を探ることなので、故意に少し変化球、時には明らかなポール球を投げる必要がある。そして、その返答の中から相手のストライクゾーンを探っていく。

 投げる球の方向にしても一方向ではダメで、いわば的の中心(これがわからないのだけど)に対して、全方位に球を散らばせる必要がある。 

 これは政治家が世間の反応を確認するために実施する”観測気球(アドバルーン)を上げる” こととも類似した行為である。こうした観測気球によって逆に炎上につながる例があるように、いわば実弾を使ってリアルな反応を見極めることになるため、リスクも大きい行為なのだ。 

 このような行動は、上司が変わった際によく行われる。 

 前の上司の方針に対して、今の上司がどのように考えているかを探る意味で、わざとあえて外した質問をしたりする。 

 そして今の上司のストライクゾーンが把握できたら、それ以降は荒れ球を投げるのはやめなくてはならない。 

 そうしないと自分が「無能」と思われるからである。 

 だが、これができずに、永遠に荒れ球を投げることが癖になってしまう人もいる。

 こういう人は、まず相手と話をする際に、まずありえないアイディアを提案し、ようやく狭めてくる。 

 「まるっきり違うよ」→「そうですよね、じゃあこれでは」→「ちょっと違うよ」→「そうですよね。じゃあ、これでは」→「うーんもう少しかな」→「そうですよね、じゃあこれでは」→「よし、それでいいんじゃない」という面倒くさい手順を毎回踏むことになる。 

 確かにこれはこれで当人にとっては、理に叶っているのである。いわば総当たり式で確実に正解にはたどり着く探索システムではある。無駄は多いが確実といえば確実である。 

 しかしこれを、生身の人間相手に毎度毎度やられると、最初のボールが確実に芯から外れていることに対して、ものすごくイライラしてくるのである。最初から正解を出す気がない態度をデフォルトにされるのは、さすがにきつい。お互い時間がかかってしかたない。 儀式じゃないんだから。

 上司目線からすると、無駄が多いとしか言いようがない行動なのである。 

 これは部下が上司の意思を計測することができなくなった=シンクロできなくなった、そして、シンクロすることをあきらめてしまったことによって起こる現象であろう。 

 構図としては、毎回荒れ球しか投げないコントロールの悪いピッチャーとの対決になり、ビーンポールの連投を受けてバッターである上司は疲弊する。時にはデッドボール直撃すら受ける。当然荒れ球を投げるピッチャーだって多投によって疲弊するので、なんのことはない、共倒れである。 

 かようにシンクロ率というものはビジネスにとって重要なのである。 

Share

【死して屍拾うものなし】成果主義を追求した結果、誰もやらない仕事=汚れ仕事ってあるよね

 長く仕事をやっていると、どうしても誰もやりたがらない業務、みんなが避ける業務が回ってくることがある。

 人間の心情としてスポットライトを浴びるような業務や、すぐ成果が出る業務をやりたいのは理解できる。

 成果主義がメインとなった昨今ではなおさらだ。

 ただ成果主義の悪いところは、結果として”越えられるハードル”を最初に交渉して、それを飛ぶ、という出来レースが横行してしまうことであろう。

 本来、越えられるか越えられないか、というところは成長性、伸び代を試す場面であろうが、この悪しき成果主義が加速してしまうと、まずは”越えられるハードル”を事前交渉され、その上に結果として超えられなかった場合の自己責任回避の他罰主義まで横行するのである。

 つまり「僕はこの期初目標を達成できる結果を出せました。しかしそれは外部環境のせいでそれはできなかったのです。つまり、今回の未達成は僕のせいではない。評価はAでよろしく!」という状況が生まれるのである。

 初めから失敗がわかっている業務とか、進めていくと絶対揉め事がありそうな業務は完全に誰もやりたがらない。

 素直に自動的に成果につながる仕事を欲しがる。リスクなんて取らない。

 ただそんな出来レースみたいな仕事は、いわばルーチンワークなので付加価値もないのである。

 チャレンジングな目標を立てても誰もやらない。

 結果として、コンサバな結果を集めたコンサバな組織の成果になり、最後に管理者は「なんでこんなコンサバな結果になるのだ!」と怒られる。

 だが、それはこの悪しき成果主義の必然の帰結であり、仕方ないのである。

 こんなやりすぎな成果主義が横行する中で、あえて失敗やトラブルが約束された「汚れ仕事」は誰もやりたがらないのである。いわゆる野球のお見合いのような誰も取りにいかない仕事が溢れてくるのである。

 だが、結局誰かがそれを処理しないと終わらないので、仕方なく、そうした業務が回ってくることもあるのだ。

 特に技術者は、技術に特化しているので、泥臭い労務や法務などには全くの無力であり、こうした業務が残り、誰かがやらなくてはいけなくなることが多い。結果として、貧乏くじのように誰かがやる羽目になるのである。

 そのとき、偉い人は「良きにはからえ」だし、中間管理職はババ抜きゲームであり、本社系の人々は「現場で解決してくれ」だし、最後に誰かがこうした火中の栗をあえて拾わなくてはならない。

 私もこうした「汚れ仕事」をやった経験を述べてみたい。

 だが、ここでいう「汚れ仕事」とは、総務人事がいう「汚れ仕事」とは意味を異にすることは注意を促しておきたい。彼らは、アンダーグラウンドな世界のあれやこれやなので、これは本物の世界である。

 しかし、こうした中間的な「汚れ仕事」もあるのである。

 こうした中間的な「汚れ仕事」をやるようになって実感するのは、やる側は貸しとして記憶するのだが、やらない側は目を背けるので、非対称になる。

 こちらは「貸し」と思っているのだが、相手は全く意に介していないのだ。

 まあ、本人からするとやるべきでない仕事なので、なんか”ゲテモノ食いのやつがいるな”程度の感覚なのかもしれないが、こちらも無形的でも報酬的なものがないときついのである。だが、実際はない。

 そんな私が社会人生活で経験した「汚れ仕事」を以下に列記してみる。

◆空気を読めない他組織の新参者がKY発言を連発した会議のあとで、自組織の偉い人から言われた「あいつを次回から排除しろ」→仕方ないのでその上司にネゴするが、基本的に他人の組織に手を突っ込むのはご法度なので非常に交渉が難しい。

◆トップの意思がぶれている場合、そのブレを下位層に知らせると結果的に皆二転三転になり信頼関係が薄れる場合、あえてそのトップの「ブレ」を伝えず、握り潰す。どうせもう少し時間が経てばトップの意思も変わるはずと信じて、あえて「伝えない」。いわゆる高周波成分をカットするローパスフィルタのような役割であるが、最悪、伝えなかったことに起因する責任は全部自分が負うという覚悟込みなので、その間、眠れぬ日々が続く。

◆合意ができていないが、とりあえず話だけは進めなくてはいけない場合の、その後の交渉。結果として言った言わないや、最終的に落とし所をどうするか、など長い交渉が必要になる。

◆最終的に、相手に敗北を認めてもらうためのメンツを立てるためだけの謝罪や裏工作。とりあえず「(全然そうは思っていないですけど)誤解を招いてしまい、申し訳ありません!」と謝るところから。

◆ルールは決まっているが、そのルールの運用を曖昧にした結果生まれる玉虫色な状態。結果としてどこかでそれを白黒決着させなくてはならないが、それを誰も言いたくない場合に、あえて反論や不満が返ってくることがわかって告知する役目。「ルールで決まってるから!」と言い切るしか答えはなく、妥協の余地などないのだが、それを当人にいう役目は誰もやりたがらないのである。

◆トップ同士で「決まったことだから」と呼ばれたが、実は何も決まっていないが、トップ同士で自分に都合の良いように相互解釈している業務のフロントラインにいることがわかった時。まさに板挟みである。成果を出せば、どちらかの利益に相反するし、何もしないニュートラルな回答だと自分の無能さを曝け出すというまさにチェックメイト状態である。

 結果として、若い衆からは「あの人の言うことは信用できない」と言われ、周りからは「あいつマネジメント下手くそだな」と言われ、まさに汚れ仕事。何も良いことないのである。

 まさに隠密同心「死して屍拾うものなし」(by 大江戸捜査網)の心境なのである。

 

Share