【書評】機本伸司「神様のパズル」ハードSFでは、作者にとって”天才の先端性”と”大衆への啓蒙性”のジレンマをどうやって解決するかが悩ましい

 2002年の小松左京賞受賞作である機本伸司「神様のパズル」を(今更ながら)読んだ。

 本書のメインテーマは、ハードSFの王道とも言える「宇宙を作り出す方法の可能性」という設定。そこに素粒子物理や大型加速器施設などの物理ガジェットを散りばめて、ある種の「仮説」とその「実証」が描かれる。

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 ストーリー進行は、主人公である”天才”穂瑞沙羅華(ほみず・さらか)が「宇宙を作り出す方法の可能性」のテーマについて、彼女自身の出自に由来した問題意識に従って思考していく。主人公である穂瑞は、作中で既に”精子バンクの人工授精で生まれた早熟の天才”という位置付けであり、既に読者との乖離がある存在として描かれる。

 そこで、読者と同じ目線の進行役であり、この小説の語り手、綿貫基一を設定することで読者との橋渡しをしている。

 この小説自体は、こうした非常に冒険的なテーマをハードSF特有の仮説の提示のみで済ませることなく、大学4年生の卒論をめぐる恋愛・青春模様や、大規模実験施設の周辺にある農村の風景などの対極的な要素と、うまくリンクさせており、広範な読者に”読ませる”ことを実現させている。

 そしてSFとしての問題意識が突きつける、

 ・我々の宇宙には意味があるのか?あるとしたら、それは何か?

 ・我々の宇宙にとって創造主は居るのか?居るとしたらその意図は何か?

 ・我々の宇宙とそれを理解しようとする我々個人とは、
  どのような関係にあり、我々個人の生きる目的とは何か?

といったテーマについて、読者に想起させることにも成功させている。

 特に苦労するのが、主人公であり”天才”として描かれる穂瑞沙羅華の人物造形であろう。世界の謎を最初に解き明かす存在を小説中で描くこと、これは非常に難しい。読者にしても、その”天才性”あるいは”前衛性”について納得できないと、小説としてのリアリティが崩れてしまう。

 作者の主張の一部でありながら、現段階の人類の英知を超えた存在として描かれなくてはいけないというジレンマを作者が抱えるのである。特にSFのような科学的知識に裏付けを持つ必要がある場合には尚更高いハードルであろう。

 いっそ天才は無口で余計なことを語らない存在にした方が良いが、その場合でも小説としては誰かが理由を解釈して読者に提供する必要がある。

 教師としての”天才”と、読者代表でいつも怒られる”進行役”という構図で進めることは可能であるが(本書も基本的にはそうやって進行する)、進行役によって常に天才の先端性が薄められる結果、陳腐化する恐れもある。

 この小説では、その課題を真正面から捉え、”天才”にそれ自体の”仮説”を語らせることを選んだ(「光子場仮説」と呼ばれるもの)。そしてそれを落ちこぼれ的な語り手、綿貫基一の1人称(日記形式)で再解釈して語らせることで、読者との平滑な接続を図った。このコアの部分は、綿貫がそうしたように、一定の人々はこれを読み飛ばすので問題は起こらないが、ある種の専門知識のリアリティがある人にとっては、違和感となってしまうことは避けられない。

 私自身の経験(物理学科卒)からも、この小説における物理学科の大学生の卒論ゼミの描写、大学教授(理学部)の発言、卒論の内容に関しては、少々現実からの乖離として受け取らざるを得ない部分があり、少々読者として苦しい部分があった。

 直截的な印象として、登場人物が理系ではなく、全員文系のように捉えてしまったのである。物理の卒論ゼミでありながら、演習で使われる用語は一切登場しない(問題を解かない)。まるで教養学部のゼミのような、あるいは、NHKの科学番組のような、大衆への「啓蒙性」が全ての場面に強くなってしまっている。

 本来自然科学が有する論理性とは、独善的であり啓蒙性とは相容れない部分がある。そこのジレンマをSF小説では抱えており、非常に難しい。

 森博嗣の「四季シリーズ」や小川洋子「博士の愛した数式」でも、その”天才性”を描くことに対して同様の構図があり、それぞれ別の小説手法として解決している。

 更には、”天才”と”進行役”の構図は、”作者”と”読者”の関係でもある。

 「バーナード嬢曰く 第1巻」の、グレッグ・イーガンの小説に関して、全く理解できないと泣く町田さわ子に対する神林しおりさんの名言

「みんな 実は 結構よくわからないまま読んでいる・・・」

「グレッグ・イーガン自身 結構よくわからないまま書いている」

「私がよくわからない時 同じ部分 作者もわからない」

施川ユウキ「バーナード嬢曰く 第1巻」

 という仮説とも関連する。作者と読者の間でも情報レベルの均衡の問題がある、という鋭い指摘である。

 「独善的な先端性」=作者と「大衆的な啓蒙性」=読者との関係は、正にトレードオフの関係であり、最適点が見つかるはずである。その試みとしても「神様のパズル」は非常に挑戦的な小説として読めた。

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【書評】小松左京「召集令状」(角川文庫)小松SFの原点としての戦争体験

 小松左京「召集令状」(角川文庫)を読んだ。

 戦後五十周年にあたる1995年(平成7年)の「角川文庫で読む戦後50年」フェアで新たに編まれた、小松の”戦争もの”8編を集めた文庫である。実質的デビュー作「地には平和を」も収録されている。

 小松自身は終戦時には14歳。勤労動員の中学生であった。本土決戦が叫ばれる切迫した環境において、思春期を迎え、そして兵士として戦いに参加できる年齢に入っていなかった小松自身にとって、この戦争体験は大きな文学的原体験となった。

 そして戦後の戦争なき”平和な日常”に対して、こうした過去から照射された問題意識を常に小松は常に保持していたようだ。「地には平和を」で、歴史を修正させるタイムトラベラーにこう語らせている。

 犠牲を払ったなら、それだけのものをつかみとらねばならん。それでなければ、歴史は無意味なものになる。二十世紀が後代の歴史に及ぼした最も大きな影響は、その中途半端さだった。世界史的規模に置ける日和見主義だった。

(前掲書「地には平和を」p.103)

 1945年8月15日に終戦がなく、本土決戦を遂行した場合のもう一つの現実を描いた「地には平和を」では、こうした歴史に対する問題意識をさらに進め、歴史自体が持つダイナミズムにまで対象を広げている。

 歴史がそれ自体としてどのような可能な未来を選択するか?可能な意味のある未来を破棄し、熱的な死のような(政治思想的な意味ではなく)”保守的”な未来にしか収斂しないのではないか?という根源的な問いかけである。

 こうした問題意識の中で、SF的手法を使って描かれた小松の「もう一つの歴史」は非常に深い。

 楳図かずお「漂流教室」(1972年)に遡ること8年前、1964年に発表された「お召し」では、12歳以上の人類が何の理由もなしに消滅する文明の未来を描く。

 戦争の記憶を意図的に忘れさせようとする動きを描く「戦争はなかった」や、平和な日常に全く異なる戦争が接続されてしまう「春の軍隊」など、戦争体験の持つ暴力性、残酷さのリアルが小松の肉声として伝わってくるようだ。

 この文庫のあとがきに小松は次のように書いている。

 最後に、この作品の中に出てくるエピソードは、ほとんどが実話である。戦後五十周年にあたり、この短編集を編むことになったが、ここに収録された作品群は、私にとって非常に「つらい想い出」の作品ばかりなのである。

(前掲書 「あとがき」 p.270)

 小松がこの文章を書いてから、更に20年以上経過し、リアルな戦争体験を知る世代も極めて少なくなっている。同時に”あの戦争”の意味も、また時代の中で変化しつつある。

 時代が経過すればするほど、対象を歴史の一つの客観的な「事件」「事象」として捉え、評価することが容易になるように思える。より客観的な視点といえば確かにそれは一面の真実だが、その一方で実際に起こった「リアル」な経験自体が、その世代がいなくなることにより評価の中から薄れてしまうことは、これもまた不当なことであろう。


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【書評】ヴァン・ヴォークト「終点:大宇宙!」-溢れ出る過剰なまでの物語性

 行きつけの古本屋に創元推理文庫のヴァン・ヴォークト作品が並んでおり、未読のものをいくつか入手することができた。100円均一であったが、その中でもちょっと高めの値段(といっても420円であるが)がついていたヴァン・ヴォークト「終点:大宇宙!」(翻訳:沼沢洽治)を読了した。

 これもカバー装丁は「武器製造業者」同様、司修のものである。

 原著の初版は1952年で、翻訳者による「訳者あとがき」では本書に収められた「作者のあとがき」の存在について言及されている。

 (前略)「終点:大宇宙!」は数冊あるヴォークト短編集の中でも白眉と称すべき逸品揃いで、作者自身非常に愛着を感じていることは、珍しく「あとがき」を付して刊行していることからおわかりいただけよう。この「あとがき」自体、ヴォークトが自分のSF論(かなりひねった形であるが)を開陳に及んでいる点、資料としても貴重なものと思われる。 「訳者あとがき」p.290

 引用終わり

 ここに収められた短編は、どれもヴォークトによる過剰なまでの物語性の魅力に富んでいる。SFだけでなく、恐怖小説の系譜、推理小説の系譜にも連なる「謎」の呈示とそのゲーム戦略的処理(あくまで処理であって、解決ではないことに注意されたい)が豊富に盛り込まれ、読者を飽きさせない。

 ヴォークトの小説は短編であっても、そこに込められている”材料”がそのサイズに対して豊富で、再読、三読に耐えうる。これは、別にわかりにくいというわけではない。

 しかし、推理小説の読後感のような、一気に全ての謎が明快に説明されてスッキリ、というカタルシスはない。むしろ逆である。

 異星人の侵略に対する1人の子供の戦いを描く「音」では、子供を導き訓練されたプログラムの存在や”音”については明快に描かれることはない。

 記憶を失ったセールスマンがその記憶を取り戻すために時空を超えて冒険する「捜索」では、重要な役割で描かれる”無限に出るインク””無限に出る飲料”や、それを唯一壊すことのできる老人についての背景説明は積極的になされない。

 こうした著者自身ですら消化しきれない(させない)伏線がそのまま呈示されることにより、メインストーリーの陰で進行する何か別の流れが存在しているような状態である。

 読者としては、異国の狭い裏路地を歩んでいるような気分になる。再読の過程で、前回通り過ぎた分岐点に差し掛かり、別の細道の方を注意して眺める。はるか道の向こう側で”何かが起こっていそうな雰囲気”は確かに感じる。しかし目を凝らしてもよく見えないので、やはりモヤモヤ感じを持ちながら、元のメインストーリーとしての道を歩むことになる。

 しかし、そうしたモヤモヤは決して作品の瑕疵ではない。むしろメインストーリーはそれ自体で十分なSFになっているのである。そこに更に加えて過剰な要素があり、いわばコップのふちから、面白さが溢れ出ている状態なのである。 

   センス・オブ・ワンダー的な要素は確かに希釈されてしまうが、これがまさしくヴォークトの個性なのであろう。

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【書評】カート・ヴォネガット「スローターハウス5」ドレスデン爆撃の経験と精神の受動性

 カート・ヴォネガット「スローターハウス5」(ハヤカワ文庫)を読んだ。

 この小説の構造としては、常識的な世界解釈とSF的な世界解釈の2通りで読解できる。

 そのどちらが正しいかは未確定である。

 常識的解釈では、眼科医である主人公ビリー・ピルグリムが、1968年に飛行機事故で脳に損傷を負い、宇宙人に誘拐された過去という妄想を抱き、加えて、意識の時系列が不規則でバラバラになってしまったという、いわば精神分裂病者によるストーリーである。

   SF的解釈では、この”妄想”は全て事実であり、ビリーは常に時間軸を不規則に移動し、実際に宇宙人に誘拐されたという、タイムワープもののストーリーになる。

 ここで、どちらの解釈が正しいか確定させること自体にはさほど大きな意味がないと思われる。

 著者の意図は、高度な文明を持つ宇宙人であるトラルファマドール星人の小説一”始まりもなければ、中間も終わりもないし、サスペンスも、教訓も、原因も、結果もない”、”瞬間の深みを一度に見ることのできる”小説ーのように、モザイクのように断片をつなぎメインテーマを描くことにある。

 このメインテーマとは、著者自身が経験した「ドレスデン爆撃」の経験であり、戦争の記憶である。

 「ドレスデン爆撃」は、著者が言及しているように広島の原爆と同様の、連合国軍による非戦闘民への無差別破壊として知られている。

     Wikipediaより引用する。

ドレスデン爆撃(ドレスデンばくげき、英: Bombing of Dresden、独: Luftangriffe auf Dresden)は、第二次世界大戦終盤の1945年2月13日から15日にかけて連合国軍(イギリス空軍およびアメリカ陸軍航空軍)によって行われた、ドイツ東部の都市、ドレスデンへの無差別爆撃。4度におよぶ空襲にのべ1300機の重爆撃機が参加し、合計3900トンの爆弾が投下された。この爆撃によりドレスデンの街の85%が破壊され、2万5000人とも15万人とも言われる一般市民が死亡した。

 引用終わり

 東京大空襲の11万人、広島原爆の9から16万人(放射線被曝死者含まず)と比較しても、被害者数は甚大な災厄であった。

 ビリーはストーリーの中で複雑に(痙攣的に)時間を転移し、イベントとしてはこのドレスデン爆撃をひとつのクライマックスとして迎える。

 しかしながら、ドレスデン爆撃という残虐な行為がメインテーマでありながら、その記述は抑え気味であり、無辜の非戦闘員が死んでいるそのさなかに、主人公は強固に作られた生肉貯蔵庫(スローターハウス)の中で、家畜の死骸と一緒に助かる。いわば殺戮の最中の描写は全くない(語り手である作者もその生肉貯蔵庫の中にいたのだからある意味リアリティはあるのだが)。

 不規則な時間軸を持った断片によってモザイク状に表現されたビリーの生涯は、戦争における虚弱な兵士としての道化的な役割、トラルファマドール星における動物園での見世物の役割、”醜い容姿の”婚約者に対する消極的態度など、一貫して与えられた運命に対して受動的役割を常に演じている。

 ”時間の全てを見ることができる”トラルファマドール星人は、”いやな状態は無視し、楽しい時に心を集中する”、”死んだものは、この特定の瞬間には好ましからざる状態にあるが、ほかの多くの瞬間にも、良好な状態にある”という、運命に対する精神的な受動性をビリーに説く。

 避けえない自らの消滅の運命に対してさえもトラルファマドール星人は時間を操作することで対応する方法を説き、ビリーもまたこれを理解する。

  トラルファマドール星人はビリーにこう語る。

 「今日は平和だ。ほかの日には、きみが見たり読んだりした戦争に負けないくらいおそろしい戦争がある。それをどうこうすることはわれわれにはできない。ただ見ないようにするだけだ。無視するのだ。楽しい瞬間をながめながら、われわれは永遠をついやすーちょうど今日のこの動物園のように(略)」(前掲書。p.142)

 引用終わり

 語り手である著者もビリーと同様ドレスデン爆撃を経験し、この小説の中で、死に対する言及の後に「そういうものだ」という諦念を交えたフレーズを繰り返す。

 小説の中で”死”をイメージする出来事に付随的に何度も現れるこのフレーズ「そういうものだ」は、トラルファマドール星人の口癖である(前掲書 p.39)。

 本来ビリーの妄想の世界であるはずのこの言葉が、小説の上位構造の描写、即ち語り手である作者の言葉としてもその原則として使用されている。これにより、小説は更に複雑な構造になっていると言えるが、これは先にも述べたように、時間軸を空間を見るように一望させるというトラルファマドール星人の小説を志向しているという意味では正しい効果を挙げているといえよう。

 ”瞬間の深みを一度に見ることのできる”ことを企図して作られたモザイク化されたこの小説には、絶望的な運命に対する諦念と乾いたユーモアが漂う。

 低俗とも思える 「軽さ」と残虐極まりない「大爆撃」の対極なイメージを断片化し、時間という次元から自由に独立させることで得られる”分裂的な思考”は、世界戦争を経験した状況下において、全体との非対称性により極小化された個人の生存手段として最後に残された有効な態度なのかもしれない。

 しかしそれはある意味、巨大な絶望の中で立ち竦むしか術のない、我々ひとりひとりのどうしようもない無力さを突きつけられるということでもあり、やるせない気持ちになるのである。

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【書評】オーウェル「1984年」と連合赤軍における”粛清”の現実

 ディストピア小説の古典的傑作ジョージ・オーウェル「1984年」(新庄哲夫訳)を読んだ。

 出版は1949年であり、科学技術の継続的発展を前提とした比較的明るい未来を描いた(誤解を恐れずに言うと、楽観的な)SF小説と異なり、“全体主義的管理社会”の悪夢を描いたディストピア(反・理想郷 =ユートピアの世界を描く)というジャンルが存在し、本書もその区分に入っていると言って良い。

 ハヤカワ文庫でもSFの枠でなく、NVの枠に入っているため、背表紙の色は白である。

 20世紀初頭に台頭してきたファシズムや共産主義などの全体主義・管理社会が覇権を得て強化していった場合に、人類の自由な生活はどうなってしまうのか?

 本書はこうした問題意識のもとに書かれた。

 ここで描かれる未来社会には個人のプライバシーはなく、常に政府から住民はテレビにより監視されている。住民同士も相互に監視し、互いを密告し合う「粛清」社会となっている。

 小説構成のうえで、こうした世界を、未来のある時点で成立させる根拠として

  1. 世界が大きな3国に分割・均衡状態となり、戦争の目的が相手の磯滅から余剰生産の消費に変化している
  2. 言語の簡潔化により複雑な思考や新たな想像力を抑止する(ニュー・スピーク)
  3. 党の無誤謬性のために歴史を日常的に修正することによる史的感覚の喪失
  4. 個人の意思を無くす考え方の奨励(ダブル・シンク)

 という仕掛けをオーウェルは作りだした。

 第二次大戦後の核戦争後の世界において、大国覇権主義が進み、ある種の均衡(囚人のジレンマ的な)状態が生まれ、同時に大国同士であるが故に、これ以上の文明の自己発展に対する駆動力が喪失されることにより”最重要課題が自らの体制の存続”となった管理社会の姿を描いている。

 そこでは、戦争自体も、体制維持のための単なる<生産一消費>のシステムの一部に組み込まれたものとなっている。

 主人公であるウィンストン・スミスは、こうした世界に対して自己の内部に少しずつ「自分のための時間・空間」を作り出し、ささやかな自由を求める。それがこの世界のルールに反すると理解しながら。

 結果として、自らが予期していたように捕縛され拷問される。その尋問では、単に異分子を排除するのではなく矯正することこそが目的であり、彼は自分自身の中で唯一侵犯されず自由であると信じていた精神の領域一心の中の特別な領域一すらも、破壊させられる局面を迎えるのである。

 彼を尋問するオブライエンは彼にこういう。

 「違うんだ!ただ自白させたり、罰したりするためばかりじゃない。ここへ君を連れてきたのはなぜか話してあげよう。君を治療するためだ!正気に立ち返らせるためだ!いいか、ウィンストン、ここへ連れて来られた人間は、完治しないうちにここから出て行くことは絶対にあり得ないのだ。われわれは、君の犯した愚かしい罪には興味がない。党は明白な犯罪行為などに関心はない。われわれが問題にしているのは、思想そのものだけだ。われわれはただ敵を破壊するばかりじゃない。彼らを改造してしまうのだ。(略)」(「1984年」p.329-330)

 引用終わり

 監視される囚人の最後の砦として自分の精神の内部が存在すると良く言われるが、「1984年」の世界では、この精神の守るべき最奥部にまで迫ってくる。

 そして政府(党)はウィンストン・スミスに対して、その目的を成功裏に達成するのである。

 これはあくまでフィクションだから、現実にはそうした事態は起こりえないのであろうか?

 そんなことはなく、この描写が現実のものとなったことを、我々は既に知っている。

 ・・・森氏(引用者註:最高幹部 森恒夫のこと)は、誰かからアイスピックを受け取って、寺岡氏(引用者註:これも幹部の寺岡恒一氏で粛清の対象者)の前に立て膝で坐り、静かな口調で、

 「お前に死刑を宣告する。最後にいい残すことはないか」といった。寺岡氏は、小さな声で、

 「革命戦士として死ねなかったのが残念です」

と答えた。(植垣康博「兵士たちの連合赤軍」p.311)

 引用終わり

 かつての新左翼による「連合赤軍事件(山岳ベース事件)」における「粛清」(同志殺し)では、仲間たちによって反革命として追い詰められた被害者が、最終的には自らを裁く論理に従い、裁かれるものじしんが自らが死刑になることを認めた。裁いた者たちが、裁かれる者のその心すらも降伏させたことが明らかになっている。

 まさに「1984年」の世界を、我々は1972年に実践したことになる。

 吉本隆明の共同幻想一対幻想一自己幻想の概念で言えば、共同幻想と自己幻想の間には互いに矛盾が生じる。そして常に共同幻想が自己幻想に対して優位に立つが、自己幻想には必ず不可侵の領域があるはずであった。

 しかしながら、この事例では、そうではなかったことになる。

 赤軍派の新左翼たちが行ったように自己幻想すらも完全消滅するレイヤーがあるのである。

 おそらくそうした彼らのイデオロギーの父祖である、スターリンによる大粛清、中国の文化大革命、カンボジアのクメール・ルージュによる大虐殺などでも、同じようなケースが多々あったのであろう。

 主人公ウィンストン・スミスは、物語終盤で自己の自由であった精神領域と引き換えに、元の生活に戻ることができる。結果として、その生活は前よりわずかに豊かになっている。自己の裏切りと体制への忠誠という奉仕によって社会のステータスが上がったかのように。

 そして彼は、もはやこの世界を愛するようになっている。 過去の自分を顧みて、銃殺されることを待ちわびながら。

 こうして「1984年」の世界には、再び体制に疑いを知らぬ人々が溢れる。本当に善良な人は戻ってくることはなく、ウィンストン・スミスのように何らかの裏切りを為したものだけが戻ってくることができるからである。

 このこともまた、我々の世界で同じことが起こった。ナチスドイツの収容所から生還したフランクルは著書「夜と霧」の中で、こう語った。

 「すなわち、もっともよき人々は帰ってこなかった」と。

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【書評】J・P・ホーガン「星を継ぐもの」ー仮説形成そのものが小説となっているハードSF

 もはやハードSFの古典であり、誰もが認める傑作、J・P・ホーガン「星を継ぐもの」(創元推理文庫)である。

 先日再読したが、やはりエキサイティングで面白い。

 小説としては、ひとつの「謎」に注目して、それを科学的な視点でひたすら解く、というある意味非常に単純な構造である。

 しかしながら、その「謎」の設定、内容が非常に優れており、それを解明する「仮説」が、最終的にとんでもなく大スケールかつ説得力のあるものに拡大していく。「仮説」が提示されたラストを読み、読了後にはその壮大なフィクションの力に圧倒されるというSFならではの読書体験ができる。

 「謎」とは、月で発見された”宇宙飛行士”の死体の発見から始まる。その死体は分析の結果、今から5万年前のものであり、 また地球人(ホモ・サピエンス)と全く変わらないものであった。装備も明らかにオーパーツなものである。

 つまり、5万年前に高度な科学が月に存在していたのだろうか?

 地球人だとすると、如何にして月に行ったのか?

 などの疑問が湧く。

 これらを新たに発見されていく「事実」と合せ、最終的に壮大な「仮説」として解き明かしていく。まさにこのストーリーだけで小説が進行していくのである。

 ある意味、(日本の)伝統的な文学サイドが目の敵にしそうな、”アイディア先行型”、“アイディアのみ”の小説である。”人間が描かれていない”なんて批判が出そうな感じである。

 しかし、それでもなお、そのとんでもないアイディアのスケールにより導き出された「仮説」の衝撃は、我々 自身の立脚する<現実>を揺るがせるようなインパクトを与えてくるものなのである。

 ただ再読しても疑問に覚えた部分が1点ある。

 冒頭の月における”宇宙飛行士”の記述である。最初は2人で行動していたが、1人が負傷し、もう1人は彼を置いて目的地に向けた旅を続ける。負傷した1人というのが、前述の月で発見された宇宙飛行士であるが、もう1人をこの翻訳では「巨人」と描写しているのである。

 この小説では「巨人」とは、別の意味でも使われている。生物学的に異なる宇宙的な人種の違いの意味である。要するに地球人と火星人の違いのような使い方である。しかし、ここでその意味で冒頭の「巨人」を理解すると、物語のエピローグで大きな違和感を覚えるのである。つまり解釈が分かれてしまう。

 これが以前からの疑問であり、モヤモヤしたものであった。再読してもやはり理解できていない。最後に著者が残した謎、リドルストーリー的な結末なのかとも思わせつつ、それにしては最終的に到達した「仮説」に対する矛盾になってしまい、せっかくの大胆な「仮説」の疵になっているとも思えるのである。

 ネットで調べると、同様の疑問があるようで、意図的な設定説(=続編、続々編を読めばわかる説)や、ある誤訳説などがある。

 その中で、原文にあたったブログがあり、これによるとやはり誤訳(に近い)と判断せざるを得ない。

 プロローグ部分の「巨人」はやはり”大男”という意味の方であろう。

 つまり誤訳というか翻訳によるミスリーディングになる。

 ここをきちんと区別しておけば、ラストのインパクトは一義的に確定し、より衝撃的になると思われる。ある意味罪作りな翻訳である。

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【書評】ロバート・シェクリー「ロボット文明」ー対称性を持った奇妙なSF小説

 ロバート・シェクリー「ロボット文明」(創元推理文庫)を読んだ。原著は1960年出版で、文庫の初版は1965年。この本自体は1970年の第10版である。そして装丁は「武器製造業者」と同様、司修である。

 読了後に、どうも表題がしっくりこない。

 ”ロボット文明”というものがメインテーマではないのである。原題を読むと”THE STATUS CIVILIZATION”とある。要するにこの小説の舞台コンセプトの一つである”階級の文明”、あるいは”地位の文明”と素直に訳せば良いようにも思えるが、当時の事情だと特に”階級”という言葉がマルクス主義のそれを連想させ、そうした配慮があったのであろうか。

 短編集「人間の手がまだ触れない」とは異なり、長編小説である。

 未来の世界における囚人の星”オメガ”に、殺人の罪により記憶を強制的に消去された主人公が地球から追放される。”オメガ”は囚人による独立社会が構成されており、そこでは地球での価値からの転倒が起こっている。すなわち、地球における「善」に対していわゆる「悪徳」が社会の価値として認められているという悪夢のような世界なのである。

    そこで主人公は生き延びるために、様々な策を講じながら、最終的に地球を目指す。しかし、その地球はまた”オメガ”と表裏対称的な世界となっていた。

 アイディア自体はシンプルで、短編と同様に比較的単純な構造をしている。ストーリーも主人公の殺人の記憶を巡ってのミステリ一要素はあるものの、一本線である。しかし、そこには”オメガ”と”地球”とを相互に対概念としたある種の対称性、美的感覚を感じさせる。

 物語の中盤で、主人公の運命を”幻視者”の女は予言する。

 「あなたは死んでおいででした。それでいて、死んではいないのです。あなたがご自分で、ご自分の死骸をさがしています。死骸は粉々になって、そのひとつひとつが、きらきらとかがやいていました。その死骸があなたなのです」(p.120)

 引用終わり

  これだけでは何を意味するか全くわからない。謎めいた予言である。

 そしてまさにこの通りの運命をたどり、最後にはピースがピタリとハマるが、そこに至る仕掛けはさすがシェクリーとしか言いようがない。

 また、この小説はいわゆるフリークスが、その意味通りに重要な役割で出てくるので、おそらく再販はされないであろう。なかなか不思議な雰囲気の小説である。その一方で、ヒロシマ、ナガサキの核爆弾投下後の、核兵器を所有した冷戦構造に対する歴史問題意識、すなわちヒロシマ、ナガサキ後の史観としての意味づけもベースになっていることも指摘しておきたい。

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【書評】アーサー・C・クラーク「地球幼年期の終わり」ー人類の論理で記述できないものを記述すること

 SFの古典的傑作として有名な、アーサー・C・クラーク「地球幼年期の終わり」(創元推理文庫版;旧版)を読んだ。

  1969年初版、1973年9版の創元推理文庫。装丁は真鍋博で、地球を真っ黒で大きな鳥(鷹であろうか)がひとつかみにしている。

 人類の種としての進化とは、どのような形になるのか?

 これがメインテーマである。

 人類の想像をはるかに超えた科学力を持った宇宙人(=<上主>(オーバーロード)と称される)によって、管理・支配された地球の運命を描く。

 この宇宙人は人類を支配するというものの、その姿勢は非常に紳士的であり、地球人の独立性を認めつつ種としての滅亡を招くような”愚かな行為”ー例えば国家、民族、宗教の対立などに限り解消していく。ある意味、人類にとっては”都合の良い神”のようなものである。しかし、その目的などは一切知らされない。

 その目的は、物語に従って明らかになっていく。そして、そこに至るまでには、様々な”喪失”や”別れ”がある。我々の進化とは、我々自身が想像しえない光景であることが描かれる。我々自身の思考の論理では決して演繹できないもの、我々が想像できないもの=すなわち「我々自身にとっての上位概念」の姿を、大きなスケールで描き出す。

 物語最終盤では、そうした我々があずかり知らぬ上位の論理、上位のルールによって、人類が新たなフェーズへと移行していく姿が映像的にもダイナミックな場面として描かれる。

 しかしもはやそれは我々の論理で理解できるそれではないのである。

   現有の論理体系では記述できないことに、それでもなお、その”真理”に少しでも接近するためにはどうするべきか。仮に薄皮一枚隔てたとしても良いので、それに触れるためにはどうすれば良いか。

   その1つの回答が、文学としてのSFが目指すものではなかろうか。

 この古典的名作の持つスケール感はSFの持つ醍醐味そのものであり、語り得ないものへの憧憬の物語なのである。

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【書評】ヴァン・ヴォークト「武器製造業者」ー70年前の古典でありながら歴史・ファンタジー・恋愛・SF全てが凝縮

 最近新版が出版された、ヴァン・ヴォークト「武器製造業者」(創元推理文庫)の旧版を読んだ。

 原著の出版は1947年ということで、第二次世界大戦終了後2年しか経っていない。既に70年経過しているSF古典であるが、これがなんとも面白くて一気読みである。

 SFとしての科学的ガジェット(様々な武器や恒星間航行エンジン)は、当然それ自体若干の陳腐化(といっても70年前なのだから当たり前)が進んでいたり、ご都合主義の部分も目につくのだが、それを無視してお釣りが来るくらい”現代性”があるのである。

 一つは、主人公に「不死」という設定を与え、その使命と役割に歴史的・政治的なミステリー要素を与えたこと。これは「ポーの一族」のような、”不死という本質的に孤独な宿命”が持つ感傷を生み出す。またそれは小説上のツールとして様々な味付けにも使え、この小説構造に重層的なイメージを与えている(はるか昔に自分が仕掛けた道具によって危機を回避するシーンなど)。

 更には、この物語のラストにピークを迎える、人類が持つ科学的機械論では還元できない特殊な”思い”を、読者は客観的な視点で体験できることになる。まさにこれらはSFの持つ文学性であろう。 

 もう一つの”現代性”は、生存戦略ゲームの側面を指摘しておきたい。2つの相反する組織どちらからも命を狙われる(最後にはもう1つの”組織”からも狙われる)主人公は、様々な論理的・戦略的思考によって、その危機を回避する。まるで「カイジ」などで描かれる戦略的ゲームを見ているかのようである。

 そもそもこの小説の舞台設定、自衛のための武器というアイディアによる2つの独立した組織による均衡という姿自身が、近代文明の持続的成長に対する一つの戦略的回答とも言えるのである。

 こうした意味でSF文学としての「文明批評」、ファンタジー文学としての「不死」、そこから付随する「政治」および「歴史」。更にはミステリー要素があり、なんと実は恋愛要素まであるという、恐ろしく凝縮度の高いSF古典なのである。

 

 古書店で購入した1967年初版、1980年16版の創元推理文庫。装丁はなんと司修である。司修は1936年生まれなので31歳の作品であろうか。

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【書評】施川ユウキ「バーナード嬢曰く。」ーセカイ系の構造を持った文化系学生の視る夢

 施川ユウキ「バーナード嬢曰く。」(REX COMICS)1巻-4巻を読んだ。

 図書室に集う高校生4人による読書ネタのほのぼのマンガであり、SF要素とブッキッシュ要素満載で面白く読める。

 読書は個人で閉じている趣味なので、なかなか共同の経験となるような形にならない。こうした形で読書趣味の人が集うとしても、読書としてはオフライン状態での会話になってしまう。更には趣味の問題があって、共通経験部分が一致すること自体も少ない。なかなか仲間を作りづらい趣味なのである。

 このマンガは、運動系の部活などのポップな要素は一切ないが、これはこれで”青春”の雰囲気がたっぷりである。

 集団から外れた群れない孤独な高校生が、図書室で「読書」という共通のマイナー趣味だけで集うことでのみ物語が進行するという、ありそうでなかったジャンルである。

 

 個性のある4人の登場人物によって図書室という閉空間で語られる読書ネタというローカルな空間が、本と読書体験を通じて、人類の知的営みすべてを含むグローバルな世界に接続される。これはいわゆる”セカイ系”の構造そのものであろう。

 そして”セカイ系”の物語構造が共通して持つように、最終的に4人の独立した登場人物が1人の人格に収斂するような、たった1人の孤独な高校生が図書室で視ている夢のような世界でもある。いつ何どきそのような終わり方をしても納得できそうな儚さがある。

 

 仮にこの物語が登場人物誰かの夢であった場合、4人のうち誰の夢なのであろうか、ということを考えてみる。

 私は、意外と一番キャラの薄めな図書委員の「長谷川スミカ」さんなのではと想像している。

 ちなみに私がキャラ的に一番好きなのは、この物語の中で最も読書マニアである「神林しおり」さんである。

 ある意味ブッキッシュと読書好きの間を逡巡しながらも、読書を楽しんでいる姿が良いのである。外見も、おかっぱロングで読書ファンのど真ん中であろう。

 SFファンに「SFとは?」と聞いたら逆ギレで返答。プロレスファンに「プロレスとは?」と聞いても同様の反応があります。

 読書好きの真骨頂。かっこいい。

 装丁好きをからかわれて、開き直って本を進める。”布教用で2冊あるから”というのが良い(結構そういうケースはある)。

 

 巨匠トルストイ「イワン・イリイチの死」を読み込む神林さん。面白い本はジャンルを問わないのである。

 

 貸した本を町田さわ子に汚されてキレる神林さん。クールである。この後きちんと仲直りする。

 神林さんを模写してみた。

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