先日ラーメン屋で食事をしていた時のこと。
私は油そばを食べていたところ、後から入ってきた学生2人連れがテーブルについた。続いて、親子連れが入ってきた。
この2組の位置はラーメン屋の厨房から隠れており、いわば死角の位置であった。
両組ともメニューを見てあれこれ悩んだり、雑談したりしている。
店員はどちらの客にも水を持ってきたが、メニューがすぐには決まらないとみて、いったん厨房へ戻ってしまった。
メニューが決まったのか、学生二人連れが「すいませ〜ん」と発声。
なぜか聞こえなかったのか、店員がすぐに来なかった。
店員の耳には聞こえなかったのか、それとも、聞こえたものの少し来るのに手間取っているのか、判断がつきかねる程度の時間が経過した後に、今度は親子連れが発声した。かなり大声で。
すると今度はそれに応えて店員がやってきて、親子連れの注文を取り始める。少しメニューの質問もあったりして、やりとりしたあと、店員はまっすぐ厨房へ戻ってしまう。
学生はお互い目を見合わせている。しかし、そこからが疑問の行動なのだが、何もアクションを起こさないのである。切り替えたかのように、別の会話を始めている。
私も少し注目してしまい、だんだん食べている油そばの味がわからなくなってきていた。
結果、親子連れの注文がついに到着。店員は学生の方向を見向きもしない。何か勘違いがあったのか?すでにオーダーを取ったと思ったのか?
見ているこちらがハラハラする。
結果、学生は30分くらいそのまま会話をし、普通にその店を出て行ってしまった。その後テーブルには水のコップだけが残されていた。
こちらは一部始終を見てやりきれない思いになってしまった。具体的には、自分の過去のトラウマが呼び起こされてしまった。
私も、
・店に行って店員がオーダーを取りに来ない
・頼んだものが来ない
・先に頼んだ串カツが、隣で同じメニューを後から頼んだ客に行く
・店員コールボタンを押すが自分のそれだけ故障(後で気づいた)
・液晶のタッチパネルが自分の指だけ反応しない
・自動ドアの前に立っているのに自分だけが開かない
という自分の「人としての存在感」を否定されるような目に何度もあってきた。
もう20年以上も前の「新宿のトンカツ屋で60分以上何も言われず、存在を無視される」という目にあっている。未だに店の名前もその時の自分の感情も鮮明に覚えているので、この手の話に時効はないのだ。
店員からしてみると「一言言ってくれても」という思いもあるであろう。しかし、こちらは一言ではなく、何度も声をかけた結果、「それならそちらが気づくまで待ってやる」という態勢に入っているのである(執念深い)。
確かに1人メシは好きだが、これは単なるハラスメントの一形態であるネグレクトであって、私にとってストレスフルである(そもそも食事の前提が成立していない)。
最近、IDカードを借りて、それを用いた認識と連動して自動ドアを開けるセキュリティのあるところで、私だけ認証させたのに自動ドアが開かないという目にあった。これはIDカードをかざす認証タイミングが遅れた結果、自動ドアの真下に体が来てしまい、センサーの死角に入ってしまったかららしい。
とはいえ、こうした仕打ち(機械にせよ人間にせよ)は自分の存在を完全否定されるごとく、非常に落ち込むものである。
特に、この場合には肉体としての存在ではなく、精神的な存在、自己について直接世界から拒絶されたような気になる。
年を取って空間的には十分存在感があるはずなのに、なぜこのようなことが起こるのか。
肉体とは別の、人間としての存在感そのものが薄れているのだろうか。その可能性はある。でも、それはどうやって増強すれば良いのか、その答えはまだ見つけていない。
最近は機械ではないが、忘年会の会費徴収でわざわざ先に幹事のところへ会費を持っていったのに、後からまた会費徴収されそうになったこともある。存在感?これはむしろ嫌がらせか?