【書評】メルヴィル「白鯨」とモーム「世界の十大小説」の関係

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 「バーナード嬢曰く。」2巻で、その長大さに対して、何故かヘミングウェイにとばっちりの怒りがぶつけられている、メルヴィル「白鯨」(岩波文庫版)の阿部知二訳を読んだ。

 学生時代にも読んだような記憶があるが、全く内容としては記憶を呼び覚まされることはなかった。ということは、当時は何らかの中高生向けのもので読んだのであろう。何故なら、今回わかったことだが、かなり通読がしんどい小説で、こんな内容だったら若いうちには”時間の無駄だ”と判断して放置しそうだからである。

 「バーナード嬢曰く。」の主人公の怒りも実は的を射ている。

 この「白鯨」という小説は、とにかく脱線というか蘊蓄が多いのである。

 本筋だけであれば、それこそ「老人と海」と同じような単純なプロット(白鯨を追う話)なのである。しかしそれをデコレーションしているのが、鯨や捕鯨に関するあらゆる角度からの知識群なのである。これらをメインストーリーの途中で、ゴテゴテとつけていく。昔からある古い温泉旅館のように、後から部屋の増設を繰り返した結果、迷路のようになってしまう光景に似ている。まさに迷路なのである。

 これがサマセット・モームが選ぶ”世界の十大小説”の一つなのだから、またすごい。ただモーム自身もこの「白鯨」の特殊性は十分理解しており、読者の楽しみを主眼とした古来からの物語の系譜につながる、いわば王道の小説とは明らかに違う系譜である、と述べている。

 そこで述べている「白鯨」以外の小説とは、モームの十大小説のチョイスに含まれる「嵐が丘」「カラマーゾフの兄弟」、そしてジョイスやカフカの作品である、としている(W.S.モーム「世界の十大小説 (下)」(岩波新書)p.59)。いわゆる不条理、不安、閉塞感をメインテーマとした小説群であり、ある意味現代小説にとっては正統な小説の系譜である。

 モームは、「白鯨」を「陰鬱な交響楽とも言うべき、異様な、しかし力強い作品」(前掲書p.99)と評した。まさしく内容は海洋小説の持つ冒険性というよりも、閉塞感の横溢する絶望的な悲劇としか描かれていない。そしてその絶望性の象徴としての”鯨それ自体の不可解な巨大さ”を、小説自身がその閉塞感たっぷりの迷路のような構造により表現しているとも言える。

 読者は鯨の巨大さ、複雑さを、非体系化されたまま放り出されたこの過剰かつ大量な情報により体験することになる。ある意味、苦しい読書体験である。

 しかし、モームはそうは考えなかったようで、そうした脱線を作者メルヴィルがなぜしたのか「よくわからない」「非常識千万な話」「その知識をひけらかしたいという誘惑に抵抗することができなかったからであるにすぎない」「本筋から外れた章であって、緊張を甚だしくそこねていることは否定できない」とボロクソである。

 そこまで言うなら”十大小説”にランクインしなければいいのに、例えば先ほどの系譜としてカフカをあげているならカフカの長編「城」とか「審判」を「白鯨」に変わって上げた方がもっと良いのに、と思うのだが・・・。

 とはいえ、モーム自身はこの”陰鬱な交響楽”を「興味深く」読めた、と評している。「白鯨」と言う小説を何度も読むと、作者であるメルヴィルの生涯を良く読み解ける、としているのである。

すぐれた天賦の才に恵まれながら、そのせっかくの才能も悪霊の冒すところとなり、ためにちょうど竜舌蘭のように、すばらしい花を咲かせたかと思うと、たちまちその才能を枯らしてしまった男、嫌悪の念からつねに近づくまいとして、かえって本能に苦しめられた、陰鬱で不幸な男、男としての気力がすでに失われてしまったことを自ら意識し、失敗と貧困とのために世の中を白眼視するにいたった男、友情を切に求めながら、けっきょく友情もまた空なるものでることを知った心やさしい男(後略) 前掲書 p.110

 モームはメルヴィルの内部にこうした葛藤、ジレンマを見た。それはこの「白鯨」を紹介する章の中で、別の角度でも明らかにしている。「白鯨」の中にある同性愛志向への指摘である。これはモーム自身が己自身を見た姿でもあったであろう。

   「白鯨」という小説は、その巨大さと複雑さゆえに、自らの内部にジレンマを持つ読者自身を強く引き寄せる力があるのである。

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