【書評】スタニスワフ・レム「砂漠の惑星」–ファースト・コンタクトにおいて人間側の都合の良いように世界を解釈することの本質的な無意味さについて

 ハードSFの古典、スタニスワフ・レム「砂漠の惑星」(ハヤカワ文庫)を読んだ。

ハヤカワ文庫の旧版(1977年)と新装版(2006年)の比較。
イラストは旧版の方が良い気がする

 やはりレムは良い。SFが持つ独特の発想、すなわち、我々が持っている常識的価値体系を破壊し、その上位概念に向けたイメージを想起させてくれる小説群ばかりである。

 ファーストコンタクトものである、この「砂漠の惑星」であるが、 ハードSFの真骨頂らしく、もはや有機物がほとんど出てこない。

 訪れた惑星は陸地は砂ばかりだし、海にいる生物もほとんど登場しない(これには理由がある)。

 登場するメインキャラ(?)は、”砂漠”と”謎の無機物(金属)”である。

 謎の無機物、動く「ミクロな金属要素からなる黒雲」と静止した「植物のような金属」、そして砂漠を中心とした、無味乾燥な風景が支配するこの惑星を舞台に、宇宙船 <無敵号>は、遭難した前任部隊を探索する。

 彼らは、なぜ遭難したのか?

 この星では何が起こっているのか?

 「黒雲」と「植物のような金属」と「砂漠」は何なのか?

 こうした謎そのものが、小説中で、仮説として提示される。

 仮説の提示そのものがストーリー進行となるという意味では、 J.P.ホーガンの「星を継ぐもの」と似ているが、ホーガンの作品よりもその結論は明快ではない。

 むしろ謎自体は、不明なまま、異なる何かの論理があるような、ぼんやりとした状態のまま、結末を迎えている。

 この小説では、惑星の無生物と人類との激しい戦いの描写などを通じて、 ファーストコンタクトものでありながら、むしろ両者が完全にすれ違い、最後までコミュニケーションという意味で交わることのなさを徹底的に描いている。

 スペースオペラにありがちな、人類と類似している宇宙人が登場して、人類と類似した形式のコミュニケーションをしているようなご都合主義的図式を否定して、我々に一方的に都合の良いコンタクトの方が、この宇宙ではむしろ例外であることを痛烈に示しているともいえる。

 この宇宙で我々に類似した通信形式、コミュニケーションを前提としてくれている保証はどこにもない。むしろ、全く異なる直観の形式が存在していると考える方が自然である。我々の想像力がそれに追いつけておらず、結果として、自らを鏡に写したような「宇宙人」を求めてしまっているだけなのだ。

 原題である「無敵」が意味するように、この小説のメインテーマは、 ”われわれの理性の形式で理解できないもの”との対峙、対決である。

 ここで描かれる有機物生命である我々人類は、この星の”先住生命”に対して「敗北」を繰り返す。それは、物理的破壊としての敗北でもあり、コミュニケーション不可能という意味での敗北でもある。

 この惑星で人類と、支配者である「黒雲」は、物体としては同じ空間に存在しているものの、その認識(直観)の形式としては全く重なっていない。完全に異なるレイヤーにいるようだ。 主人公ロハンが最後に「黒雲」によって自らを鏡のように投影されるという神秘的な体験をしたのちに、こう呟く。

 この宇宙のすべてがわれわれ人間のために存在しているように考えるのはまちがいだ–

「砂漠の惑星」(p.299-300)

 ルール自体が異なる敵との間で、われわれの論理は何も役に立たず、無効化される。この惑星で「黒雲」に襲われた人間がそうなったように「リセット」されてしまうしかない。

  最終章「無敵」の最後に、作者レムはロハンを生還させる。

 これが原題の意味する勝利的な要素なのだろうか。とてもそうとは思えない。 誰も救出できず、装備は破壊され、ただ身一つでロケットに帰還しただけである。

 このエピソードで「勝利」と言えるものは何であろうか。

 「黒雲」がロハンに見せた鏡=ロハンの姿の投影による、ある種のコミュニケーションの”成功”であろうか。だが、それは、われわれ自身の尺度で宇宙を解釈する行為自体が、本質的に無意味なものであることを同時に了解することも意味しているのである。

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