【書評】アイザック・アシモフ「はだかの太陽」前作に続くSFミステリの傑作!開放空間恐怖症からの解放とは

 アイザック・アシモフ「はだかの太陽」を読んだ。

 SFとミステリを見事に融合させた古典的名作「鋼鉄都市」の続編となっている。関連記事:【書評】アイザック・アシモフ「鋼鉄都市」–SFの王道でありつつ、実は「青春熱血小説」としても読める構造

 通常、第2作目というものはハードルが上がるが、この作品は前作にも増して充分面白い。前提条件として説明的になりがちなSF的世界観の記述が前作で十分準備されているので、本作ではストーリーそのものの謎に真正面から取り組むことができるからであろうか。

 前作と同様、地球人の刑事イライジャと、宇宙人を似せた人間そっくりなロボット・ダニールのコンビが、惑星ソラリアで起こったソラリア人の殺人事件-不可能犯罪-を捜査する。

 前作でジェリゲル博士に与えた「開放空間恐怖症」は、今度は(なぜか)主人公イライジャに強く投影されている。

 この恐怖症は、前作で記述された地球文明=”鋼鉄の閉空間(ドーム)”としてシンボライズされていると同時に、作者自身の持つ個人的性質でもあったようで、全編を通じて開放空間=自然への畏怖が生理学的に執拗に描かれる。そして、それ自身が、物語の核心にもつながる重要なファクターを占めている。

 何しろ屋根や壁の無い空間、要するに空の下に立っただけで、惑星の運動、宇宙まで広がる不安定さをイメージするのだから大変だ。アシモフ自身の体験でもあるのだろう、このあたりの記述はしつこい。

 本書の舞台である惑星ソラリアは、人間の関係性を徹底的に排除した上でロボットによってその経済的基盤を支配する超・個人主義の文明として描かれる。

 そこでは高度な遺伝子操作の繰り返しによる人間の精製・純化の結果として、”個人”は直接的接触を徹底的に排除する文化となっている。

 すなわち、生殖、しつけ、ふれあい、暴力、といった肉体的関係によって起こる事象、親子の情愛ですらも排除され、原理的に起こりえないとされる。

 この設定、および、前作から踏襲される「ロボット工学三原則」によって、この惑星サマリアにおける「殺人」は原理的に不可能、すなわち不可能犯罪の様相を呈するのである。

 こうした設定の中で、相変わらずエネルギッシュな主人公イライジャが、時にはロボットを出し抜き、自らの任務として”犯人”を探して行く。それは必然として、フーダニットだけでなく、ハウダニットを解明しなくてはならない事になる。

 ロボット工学三原則と究極の個人主義であるサマリア文明という、2つの制約条件のもとで、論理を駆使して謎を解明する。

 それは、まさに戦略ゲームであると同時に、イライジャがもつ地球人のアイデンティティである開放空間恐怖症の意味を、文明的に意味付けることでもある。これはSFが持つ文学的課題そのもの、つまり、一つの文明の行方の議論でもある。

 こうした、<個人>と<文明>、<ミクロ>から<マクロ>、<ローカル>から<グローバル>といった時空のスケールを自由自在に動かしたダイナミックなSFとなっており、なにより非常に面白い小説であった。

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