相手の注文に正確に応えることの難しさ:上司に「ラーメン」を注文されて「寿司」を提供し続ける部下

 企画系の業務をしていて、噛み合っていないやりとりを良く見かける。

 「戦略シナリオ」案や、もう少し単純に「改善」案を、上司が部下に求めた場合に発生する収束しないキャッチボールのことである。

 回答に納得できない上司は、執拗に意図と違うことを説明し、提案を受領しない。

 部下は、否定された案を、上司の意向を考え、何度も修正・変更して提案する。
 
 お互い意図が伝わっていないのか、このキャッチボールが繰り返され、自然に”千本ノック”、あるいはちょっとした”マウントパンチ”の様相になってくる。要するに公開リンチのようになってしまうこともある。

 上司からすると”指導”なのだが、何度言っても一向に修正されない部下の態度にイラつきを覚え言葉も強くなる。部下にしてみると、出口のないただの言葉の暴力を受け続けるだけの単なるパワハラ的な印象を与えることになる。

 こうしてお互いが噛み合っていないまま、互いがひたすら不幸になっていくような風景が見られることがある。

 この「噛み合わなさ」は何なのか。もう少し掘り下げてみたい。

 第三者から見ると、以下のような単純化したやりとりになっているように思える。

 上司「ラーメンを作って欲しい。具はこうで、スープはこうで」
 部下「了解しました。作業にかかります」
 部下「できました。どうですか?」
 上司「いや、これ寿司でしょ。私はラーメンを注文したんだから」
 部下「・・・すいません。ちょっと誤解があったようです」
 部下「できました。ラーメンです」
 上司「いや、だから、これ寿司でしょ」
 部下「・・・・」

 この構図では、実際に第三者がみて、部下が作ったのが寿司なのかラーメンなのかは問題の本質ではなく、お互いにある料理の実体に対する認識が異なっており、その違うことを理解しないまま一応会話だけは進んでしまっている。

 では、最初にお互いにラーメンと称するものはこれだ、と、前提条件と定義をきちんと合意した上で業務を進めれば、この問題は解決するのであろうか。

 実際の現場では更に、もう一段複雑なすれ違いも起こっている。

 それは、上司が求めているのは「結論を導き出したロジック(論理)」であるにもかかわらず、部下が提出するのは「上司の心の中にある結論」となった場合のすれ違いである。

 これは更に根が深く、上記の事例のような前提条件を定義すれば解決できる問題ではなく、業務に対する基本的姿勢の違いに相当する本質的な問題である。

 上司の頭の中には想定された結論は確かに存在する。

 だが、それを部下に当てて欲しい訳ではない。

 もう少し大胆にいうと、その”結論”は直感で導き出されたものかもしれない。自分の経験や勘で導き出されたものかもしれない。

 いわば帰納的でも演繹的でもなく、先験的かつ超越論的に導出されたものなのである。

 繰り返しになるが、その正解を部下に当てて欲しい訳ではなく、むしろその正しさの論理的検証をして欲しい、あるいはより論理的にリーズナブルな解があるならその指摘をした上で、乗り換えるかどうかを判断したい、というのがこの「注文」の本質なのである。

 むしろ結論を考えるのは自分であって、それは部下には求めていない。それを当ててもらっても、むしろ心理的には反感も生まれる。

 だが、地位などのバイアスがかかった部下は、上司の心の中にある「結論の正解」を当てようとしがちである。その結果、論理ではなく、相手の感情に支配されることになる。

 最終的には「上司の結論と私の結論が一致しているんだから、それ以上何が問題があるのか?」という怒りすら部下は覚える。結論当てゲームに既に正解しているのに、まだしつこくグチグチと言っている上司に不信感を覚えるのである。

 結局、上司は「論理」を注文しているのに、部下は「結論」を提供するという、先程と同様の噛み合っていない構図が現れている。

 ここで更にバイアスを生んでいるのは、特に部下のもつ「絶対的正しさへの過剰な欲求」であろう。

 誰しも上司の前で間違いたくはない。

 だが、正しさとは相対的なものであり、固定されたものではない、という認識をなかなか持ちにくいものだ。特に会社組織のような、政治的、権力的なバイアスが常にかかっている場合には尚更であろう。
 
 それでも論理に必要なのは「首尾一貫していること」「論理的に整合して矛盾のないこと」である。従って、その要件を満たしていれば、複数の解(結論)がありうるし、その解(結論)同士が対立することも許容される。

 そして論理自体は玉ねぎのような階層的構造になっており、更に上位の論理が下位の論理を包含して乗り越える構造になっている。下位の階層の論理は、上位の階層の論理によって優越される。

 論理を注文する人は、ある意味「論理に殉じる」覚悟を決めているのであって、より論理的に正しければ、自分の感情とは無関係にそちらに乗り換える(意見を変える)ことも躊躇なく行う用意があるのである。そのための判断材料が欲しいのだ。

 そして、論理的な正しさこそが、組織において他者を動かす根拠(の一つ)になりうる。より論理的に正しい、より上位階層の論理である方が、他者を動かす説得力になるのである。それが故に、より論理的に正しい結論を組織においては欲するのである。

 もちろん、それらが最終的に感情や政治の力によって全く異なる別の答えになる(いわゆる”神の声”)こともあるが、それはまた別次元の話である。この神の声が全てであれば、トップ以外はただのロボットで済んでしまう。

 その意味で、納品すべきは「論理」なのであるが、納品されるのが「結論」となってしまい、終わりないマウントポジションからのパンチ連打の光景になるのは、見ていて辛いものがある。

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