【書評】藤枝静男「悲しいだけ/欣求浄土」私小説のリアリズムの極限に生まれた、SFのようなファンタジーのようなイマジネーションのある豊穣な物語空間

 藤枝静男「悲しいだけ/欣求浄土」(講談社文芸文庫)を読んだ。

 いわゆる私小説であるが、藤枝静男は、リアリズム的に自分の心理を中心に描き想像力の対極にあると思われた私小説がその極限まで突き抜けると、SFあるいはファンタジーのような異世界空間に到達してしまう、という稀有な作品世界を作り上げた。私小説に怨念を持っている筒井康隆が「みだれ撃ち涜書ノート 」で、藤枝の作品群に仰天していたのも記憶している。

 妻の死を描いた連作「悲しいだけ」はまだそれほどでもないが、作者を投影したと思しき主人公「章」による連作「欣求浄土」は、読み進めていくと、いつの間にか読者は不思議な感覚に襲われる。

 ラスト2作「厭離穢土」および「一家団欒」で、それは明確になる。

 「厭離穢土」では、これまで主人公であった「章」が死ぬところから唐突に始まる。そして、ここまで読み進めて初めて、語り手である「私」が実はいたことが判明するのだ。

 人を食ったような冒頭のシーンを引用する。

 とうとう章が死んだ。告別式がすんでひと月ばかりしてやや落ちついたころ、章の細君が一冊の大学ノートを持ってきて私に手渡し「お読みになったらそのままお手元に置いてやって下さい」と云って帰った。

藤枝静男「悲しいだけ/欣求浄土」(講談社文芸文庫)「厭離穢土」p.121

 つまり、唐突に章=私ではなく、章と私が分離されるのである。そして章の「手記」が語られ、死期の姿が描写されていく。

 そして最終話(これが実は一番先に書かれた作品のようだが)「一家団欒」では、私小説のリアリズムなどはもはや関係なく、死んだ章が自分の先祖(親や早世した兄弟)の眠る墓の中で、彼らと再会し霊魂となって祭りに参加する様がユーモラスに描かれる。

 このイメージは、まさに作者の想像力によって作られたもので、私小説の作品作成の極限の到達としてこのような豊穣な物語空間が生み出されたということは、物語の力よって鼓舞されたいと日々思っている私のような読者にとって、勇気づけられる読書経験であった。

Share

【書評】村松友視「トニー谷、ざんす」–まるで”ひとりエレパレ”のような戦後に現れた大スターの「謎」

 村松友視「トニー谷、ざんす」(毎日新聞社)を読んだ。

 戦後すぐに現れた芸人であり、”大スター”トニー谷についてのエッセイである。

 永六輔やトニーの妻など、関係者の証言も多く載せられている。

 トニー谷という存在は、日本の芸能史において特異な地位を占めている。

 太平洋戦争終戦後の混乱期に現れた、日本人のアメリカ文化へのコンプレックスをカリカチュアした、いわば「植民地芸人」と呼ばれるような露悪的な芸風(トニー・イングリッシュと言われるカタコト英語)や、本人の態度(マスコミへの敵意、同業者への不遜な態度)もあり、その真実の姿は見えない。

 本書においても、やはりその実像は見えないのである。

 太平洋戦争中に何をしていたかは、やはり「謎」のままであるし、トニー自身の悪評を産んだ行動の理由自体もまだ不透明である。ただし唯一の手がかりとして、トニーの複雑な家庭環境、不幸があったことは間違いなさそうだ。

 先日YouTubeで視聴した「ザ・エレクトリカル・パレーズ」という芸人のイケイケサークルについてのドキュメンタリーを見た際と同様のモヤモヤ感が残っている。「ザ・エレクトリカル・パレーズ」も非常に「謎」が多い動画なのだが、ここでトニー谷との類似性があるように思える。

 「エレパレ」では、吉本芸人の卵たちのカースト上位のエリート軍団が、その情熱と裏腹に生まれた排他性や党派性により、逆にプロの芸人集団の中では”原罪”のようになってしまう皮肉な結果を産んでいる姿が描かれる。

 トニー谷は、たった一人だが「エレパレ」であったように思える。

 当然のことながら、その排他的・独善的な態度は、結果的に周囲からは徹底的に浮き上がっていった。その運命を最後まで引き受けていった。

 そうした排他的な行動の原因として、芸人になる前の前半生での極めて「不幸な生い立ち」があったことが示唆される。本人がその過去を全く明らかにしなかったほどの。

 そして「エレパレ」でも明示的には描かれていないが、こうしたイケイケメンバーの「不幸な生い立ち」、そしてその遅れてきたスポットライトを取り戻すために足掻く様が、残された「謎」として提示されている。

 自己の生涯に対して幸福の収支決算を貪欲に追い求めること、それ自体は何ら非難されるべき行為ではないが、そこに乾いた焦りのようなものが随伴し、結果としてルサンチマンにまで増大してしまうケースもある。そうなると、周囲への極端な排他性を生み出すのであろうか。

Share

【書評】連城三紀彦「離婚しない女」–同心円状の外と内がひっくりかえるような感覚の恋愛ミステリ

 連城三紀彦「離婚しない女」(文春文庫)を読んだ。中編の表題作と、「写し絵の女」および「植民地の女」の短編2編で構成されている。

 名作「恋文」や本格ミステリ「人間動物園」で描かれた、心理劇+どんでん返しを味わうことができる佳品である。

 連城三紀彦の小説は女性の心理の機微に説得力のある(納得感がある)ように感じてきたが、最近、これは読者である私=男性的な視点なのではないかとも思えてきている。個人的な感覚として、男性ファンは多いが女性ファンの声をあまり見かけないような気もする(私見です)。

 それはさておき、今回の作品3編どれも、連城三紀彦の恋愛ミステリとしてのウマさが出ており、ラストに何らかの仕掛けがある。

 それも物理的な”トリック”に心理的な要素を付加しており、いわば同心円状になった多重構造の構図となり重層的になっている。

 名作「人間動物園」でもそうであったように、最後に、こうした物理的(フィジカルな)視点の転回と、心理的な視点の転回がある。これまで正しかった(と思われた)構図–それは物理的・心理的双方にある–が全く別の構図に転回される。

 連城三紀彦の作品では、通常のミステリでは描かれにくい男女の心理的関係などを”深く”掘り下げており、これが付加されることで、読後感は通常のミステリとは違った独特なものとなっているように思える。

Share

【書評】谷川ニコ「私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!」19巻–ヤンキーが夏休みに免許を取って”煽り運転”

 谷川ニコ「私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!」19巻を読んだ。

 季節は3年生の夏休みである。

 ここから卒業まで時間軸がまだストレッチしそうな予感もありつつ、今巻ではコミケやヤンキー吉田さんの免許取得+ドライブなどのエピソードが収録されている。

 この作品世界ではコロナの影響がないので、その点はほのぼのとする。

 作品世界では、やはりヤンキーが免許を取ったらこれでしょ、という形で「あおり運転」というフレーズが。まさかの加害者側にもこっちが。

 今回はそれ以外にも下ネタ満載でなかなか楽しめた(?)。

 この巻で、一番受けたのは、もこっちがKY鉄面皮な田村さんと自宅で二人で映画を見ながら勉強の回で、田村さんが持ってきた映画が「ダンサー・イン・ザ・ダーク」というチョイス。

 まさかの救いの無い映画とは・・・。

Share

【書評】秦郁彦「昭和天皇五つの決断」–天皇制のもつ二重性とその対立について

 秦郁彦「昭和天皇五つの決断」(文春文庫)を読んだ。

 大日本帝国憲法と日本国憲法、皇国史観と民主主義、2つの大きな時代とその転換点を、その中心として活動した昭和天皇の「決断」についての論考である。

 大日本帝国憲法では国政や軍事の最終決定権は”元首”たる天皇にあった。しかし、国務大臣の輔弼を必要とした制限がかかっていた。また戦後の日本国憲法では「象徴」という存在として規定されている。

 いずれにしても天皇としての行動には一定の制限はあったことになる。しかしながら、様々な局面において天皇自身が政治的に行動し、決断する場面が存在したとする。

 それが本書で描かれた5つの場面であり、これは二・二六事件、終戦、新憲法、退位中止、講和をさす。

 いずれも日本という近代国家の存亡において高度な政治的行動・交渉・意思決定が必要な場面であり、天皇自身が判断する必要があった局面ともいえる。

 本書でも描かれ、また他の史実でも明らかなように、昭和天皇自身の「意思」が、常に国家の意思と同期・等価であったことはなかった。そして、いくつかの局面では、ある勢力と鋭く「対立」したことが知られている。

 何と対立したのか。

 代表的には、2つの立場−「皇国史観」および「共産主義」−との対立であろう。両者はそれ自体相反する要素をもち、それぞれが天皇および天皇制と鋭く対立する宿命を持っていた。

 皇国史観は、「国体」なる概念によって明治維新後の近代日本の国家統一イデオロギーとして機能した。しかし、その概念を先鋭化させていくと、次第に本来同伴かつ補完しあうはずの天皇自体から離れていくことになる。

 それが「君側の奸」へのテロリズムとして現れたのが、二・二六事件や宮城事件といった日本におけるクーデター未遂事件である。ここでは、個人としての天皇(の意思)を否定し、それを乗り越えるようとする動きが見える。

 つまり、概念としての「大御心」=「万世一系の天皇」という思想的シンボルの究極化において、個人としての昭和天皇すらも優越すると”論理的に”帰結されるのである。より理想化した「天皇」というイメージによって、元首=政治家=近代的個人としての「天皇」を乗り越えようとするかのようである。それは元々、同じ思想から生まれたはずなのに。

 これは極論ではなく、終戦判断においても皇国史観の提唱者・平泉澄や首相の東條英機(二・二六事件を主導した皇道派に対抗する統制派であったにもかかわらず)、軍人であれば大西瀧治郎など、こうしたインサイダーですら、天皇個人の意思を強いて変更するという行為を、国体維持の目的のもとで正当化しているのである。

 また「共産主義」は、その思想自体が天皇制とは本質的に対立することと同時に、広義の”貧富是正”あるいは”平等実現”という理想主義(その実現手段として暴力的革命を前提)として原理的に捉えると、農村の貧困を背景とした青年士官を中心とする陸軍皇道派の意識に通底していたと思われる。これもまた二・二六事件の背景であったと思われ、その収拾において昭和天皇が明確に彼らを否定したことは、本書でも描かれた歴史的な事実である。

 こうした天皇および天皇制と対立する、まさに近代そのものの「概念」(皇国史観と共産主義)がある一方で、天皇制自体についてはどのような構造であったのか。

 終戦判断の際には、昭和天皇自身が「国家元首あるいは大元帥としての天皇」と「神器を司る神職の頂点としての天皇」の2つの立場の間で、逡巡していたと思われる。つまり、天皇制の中にも2つの矛盾する側面が存在し、天皇個人として内部対立していた。天皇制はこのギリギリの局面において、内部と外部の二重の対立構造があったといえる。

 それは近代日本の政治的リーダーと神職・祭主としての宗教的リーダーの二重性と言い換えることもできる。

 この2つの側面が、昭和天皇の人格の中にあった。

 「宗教的」という部分を補足しておくと、より自然宗教的な原始的形態を指す。日本人が、初詣に行き、神社で祈る。その際に心の中で唱える「神様」のイメージである。これは教義や戒律などで規定される「宗教」のイメージではなく、むしろ我々の生活に即したものである。あるいは夏祭りに集まる村の鎮守様のような、生活に即した小規模の緩やかな「神様」のイメージの集合体のようなものである。天皇へのイメージには、この「村の神様」が集合した、その頂点としての性格があるのではないか。

 それが故に、本書の第四章において敗戦後の占領下において、その地位が危ぶまれていた昭和天皇に対して、庶民からその地位を守る多くの声(GHQへの投書)につながったといえる。この庶民の肉声–天皇への一体感は、占領軍の意思決定に一定の効果があったと著者は指摘する。

 そして、こうした自然宗教は、決して近代国家制度の中に組み込まれることはない。歴史的にも先に存在したものであり、より広い時間空間的構造の中で普遍的に存在する上位概念であろう。

 本書で描かれた決断の中で生まれた「対立」は、こうした観点から、より普遍的な要素により勝者が決まったといえる。

 皇国史観や共産主義は、ある一時代に現れた近代的なイデオロギーであり、自然宗教のもつ時間的空間的な普遍性に対して優越はできないという必然的な結果であった。

 現代の象徴(すなわちシンボル)としての天皇制は、その意味ではより両者の対立が弱まっているようだ。本書でも以下のような記述がある。いわば「象徴」の方が座りが良いとも解釈できる。

むしろ長い天皇家の歴史から見れば、明治以後の天皇制のあり方は例外で、世俗的な権力と富から超越する位置を占めた時期の方がはるかに長かった。そして、それこそ天皇家が細々ながら万世一系の血統を保って生きのびることができた秘密でもあった。

天皇家の人々は、こうした歴史的事情をよく知っていた。だからこそ敗戦の直後にあわてふためく女官たちへ、貞明皇太后が「皇室が明治維新の前に戻るだけのことでしょう」とさらりと言ってのけたのであろう。

秦郁彦「昭和天皇五つの決断」(文春文庫)p.250

 象徴という規定によって、この「対立」は一時的な折り合いがついているように見える。

 しかし、天皇制に内包されたこの2つの側面、自然宗教(神器・伝統)と近代国家(個人)との対立は依然として解消されたとは言い難く、まだふと何かの折に、先鋭的な対立として顕在化する可能性を秘めていると思われる。

Share

【書評】黒島伝治「渦巻ける烏の群 他三編」プロレタリア文学の枠内に収まらない物語性

 黒島伝治「渦巻ける烏の群 他三編」(岩波文庫)を読んだ。表題作「渦巻ける烏の群」は、作者じしんが参加した日本軍の「シベリア出兵」を題材とした、いわゆる”反戦文学”として名高い名作として知られている。

 ここに納められた4編の小説は、当時の日本の貧困や軍事制度に対する民衆の悲劇をリアリティ溢れる筆致で描く。いわゆるプロレタリア文学に属するものであるが、こうした文学のもつ政治性とは異なる物語性を感じさせる。

 その「階級」的に全くの対照的である志賀直哉のもつ資質と非常に近しいものを感じる。それは例えば志賀の「小僧の神様」や「清兵衛と瓢箪」のような物語性の高い部分と深く通じ合っているように感じるのである。

 ただし、その問題意識の向きは、志賀直哉のもつ”芸術性”あるいは”理想主義的”なものと黒島のそれは異なり、あくまで貧しき人々の悲劇に寄り添っているようだ。

 本人の体験にも基づくであろう「橇」や「渦巻ける烏の群」も、その三人称で語られる小説世界自体は明らかにフィクションでありながら、厳冬のシベリアの凶暴的な純白の風景、そこに存在する日本兵の異物的な存在感が説得力をもって描かれ、そして最終的な「民衆の悲劇的結末」が、作者の物語の力によって強くリアリティを与えられている。

 貧しい農村の家族を舞台にした「二銭銅貨」では、貧困のなかで二銭すら出せないことで”コマの緒”が友人より短いものを与えられた子供に訪れる悲劇であり、これもフィクションとわかっていながらもその物語性によって悲劇性は強まる名作である。

 

Share

【書評】門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日」福島原発事故のフロントライン、中操(中央制御室)のオペレータたちの姿を描く

 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日」(PHP)を読んだ。(文中敬称略)

 福島第一原発事故において、事故発生から現在に至るまで次第に情報が出てきたものの、現場の最前線の声というものはあまり明らかになってこなかった。

 本書は、当時の所長・吉田昌郎だけでなく、もっとも最前線にあった中操(中央制御室)における現場オペレータたちの声や行動を丁寧に拾っている貴重な書となっている。

 以前の記事(フロントライン・シンドロームと兵站の問題)で、事故当時の福島第一原発では2つの「現場」いわゆるフロントラインがあったことを述べた。東京の東電本店とTV会議ができた「免震重要棟」(所長の吉田はここに詰めていた)と、オペレータたちのいた「中操(中央制御室)」である。

 ベントや冷却水注入などの重要判断があったが、その具体的な実行自体はこの1号機と2号機の間にある中操(中央制御室)に詰めていた、多くは地元出身のオペレータたちが行っていた。

 各種運転操作の実行だけでなく、電源喪失によりプラントの数値(パラメータ)を中央監視することもできず、次第に上昇する放射線環境下の中で、時には現場(機側)で計器を目測していたのも彼らなのである。

 原発事故の推移は、既に多くが明らかになっているように、津波の襲来により非常用電源(自家発電)であるディーゼル発電機が水没したことで全電源喪失の状況に陥った。そして大震災の影響によりインフラが途絶した状況で、冷却作業も虚しく、結果的に核燃料の溶融・漏洩に至った。

 そうした危機的状況が進行していく中、それでも、最も正確な情報が存在したのは最前線の中操(中央制御室)であった。

 非常に極限的環境において、彼らが自らの判断・責任でこのプラントの危機を回避した行為は良く理解できる。そして漏洩する放射線量が増えてくる中で、戦時中の特攻ではないが、個人への犠牲を強いるような場面すら生み出された。

 前記事で記載したように、フロントラインへの補給線は細く脆弱であった。トイレも流せず、食事や休息もまともにできない。彼らは使命感を持ち行動しているが、次第に疲弊していく。そして、次第に様々な事情を抱え、公私や義務といった”究極の判断”を迫られることになってしまう。

 本書では、こうしたフロントラインへの介入として、当時の首相・菅直人の訪問エピソードが否定的に描かれている。確かにこの行動自体には私自身も否定的な感想はある。しかし、こうした「補給線」の観点からは、若干やむを得ない部分もあるのではないかと思っている。

 事故当時の「戦線」は簡略化すると以下のような直線的な構造になっていた。

 プラント-中操(オペレータ)-免震重要棟(吉田)-東電本店-官邸

 この直線的なラインでは、情報の流れ自体と、物理的な補給線、双方の帯域(回線の太さ、流量)が細い状態であった。要するに”伸び切った補給線”となっていたことは厳然たる事実であろう。

 正しい情報は停滞し、その量は少なく、大きな時定数をもつ。

 そして現場から遠ざかるごとに、情報の不正確性は増し、その一方で関係者(専門家)の数は増えるという矛盾。

 従って、官邸では、「不確定な情報で専門的判定を元に重要な政治判断をしなくてはいけない」という状況に追い込まれたともいえ、それが首相の訪問の動機の一つになったことは本書でも菅直人が発言している。

 トップが現場に行って情報を取るような状況を作り出した責任は誰にあるのか、という議論はさておき、その動機自体は(微妙だが)それはそれとして正当な一面を持っていると私は考える。

 ただ、結果的に皮肉なことは、冷却水注入にせよ、ベントにせよ、その個別「判断」自体は、結局のところその段階でベストな解であった。つまり、こうした「東京」からの介入は結果的に”正解”にたどり着いている現場にとっては、首相の現場視察は、実行を遅らせる時間のロスにしかならなかった、という事実は動かし難い。

 確かに意思決定の責任はある。現場の独走は戒めるべきであろう。

 一般的にこうした状況の下では、正確な情報量が多い現場の判断が、より正しい解に近づけるのは自然なことである。それをこうした長大な情報ラインがその意思決定を無駄に遅滞させるという結果を招くという皮肉。太平洋戦争の日本軍の失敗と全く同様の構図に思える。

 かつてのJCOの臨界事故でもあったように、原子力事業者がこれまでの原子力行政との関係性から、事業者としての当事者意識が希薄な半官的な組織体質であったこともその一因であろう。

 加えて、そうした原子力行政を過去に推進し、パイプやそのヌエのような組織の「使い方」を熟知していたであろう自民党が下野し、民主党政権になっていたことも混乱の一因であった。

 福島原発の事故の教訓として、こうした危機管理において、サイバー(情報)・フィジカル(物資)を双方向的に補給する技術が求められているのではないか。

Share

【書評】河野啓「デス・ゾーン 栗木史多のエベレスト劇場」–「自己実現」と「大衆からの承認」のサイクルの中で泳ぎ続けないと死んでしまう”マグロ”になった人間の悲劇

 2020年の開高健ノンフィクション賞を受賞した河野啓「デス・ゾーン 栗木史多のエベレスト劇場」(集英社)を読んだ。(文中敬称略)

 ネット界隈で登山家ならぬ「下山家」と揶揄され、エベレストで最終的に命を落とした栗木史多の実像と虚像に迫る力作である。非常に面白く、一気読みである。

 栗木史多は、ネットを使った動画のリアルタイム配信を登山に持ち込み、副題にあるような「劇場型」の手法を用いた。こうした手法については、フェイクと噂される部分もあり、”炎上”の発生とネット民による”検証”という、現代的な動きも形成されていった。

 これは、例えば、科学者の捏造問題(STAP細胞、旧石器問題など)と同様の構図を持つネットによる大衆監視の劇場型事件の一つとも言える(参考記事:【書評】村松秀「論文捏造」-ベル研究所の世紀の大捏造事件と”発見”の栄誉の正統な帰属とは

 ビジネスシーンでは、彼は言い方は悪いが、「自己啓発系」のジャンルと理解されている。特に比較的中堅、若手の社員が、彼のフレーズを企画書に引用してくることもある。私自身はその度に、申し訳ないが、その「軽さ」に鼻白むことが多かった。つまり、フェイクっぽいのである。

 だが、一部の自己実現(と承認)を求める人々には、今でもなお「栗木史多」は確実にリーチしているようなのである。そうした言及も本書ではなされているし、栗木史多本人がそうした戦略を自分自身も含め、意識的に行っていた。

 本作は、こうした”中毒”のように「自己実現」と「大衆からの承認」を求めて実像と虚像を意図的に乖離させたはずが、そのギャップに苦しめられ自縛に陥ってしまった一人の人間を多角的に取材し、著者らしい映像的な構成でまとめたものである。

 冒頭で「少量の酸素でも泳ぎ続けられるマグロになりたい」とした彼は、”無酸素”登山というブランドにこだわった結果、「自己実現」と「大衆からの承認」のサイクルの中で泳ぎ続けないと死んでしまう、まさしく「マグロ」のようになる。

 そして、追い求めたものを死の直前に最後に抱くことはできたのかどうか?そうした仮説に対する回答が、本書のラストでは用意されている。

 その姿は、TVマンであった著者が、栗木史多を対象とした”製作できなかった企画作品”のラストシーンの映像のように描かれる。

 これは、著者自身もその取材者としていわば”共犯であると”反省しているように、劇場型イベントの悲劇的末路に対する著者なりの「落とし前」なのだろうと理解した。

 

Share

【書評】筒井康隆「川のほとり」(新潮2021年2月号)–生き残ってしまった老父・筒井の哀しみが伝わる感動作

 一部で話題となった筒井康隆の小説「川のほとり」(新潮2021年2月号掲載)を読んだ。

 筒井の「腹立半分日記」などでも頻繁に登場していた一人息子である「伸輔」–筒井伸輔が食道癌で51歳の若さで亡くなったことを、この小説で初めて知ったのであった。

 親にとって子供に先立たれることほどの悲劇はないであろう。

 この短い小説では、86歳の筒井が夢で死んだ息子と再会し、会話する。

 筒井自身はこの息子が自分の無意識(願望)が作り出した幻影であり、自分そのものに由来するものであることを理解している。

 自分が作り出したイメージであるならば、この会話は自問自答(モノローグ)にすぎず、全ては予測可能なはずであることも語り手の筒井は理解しているのである。

 しかし、この夢に現れた息子「伸輔」の応答はそうしたモノローグな要素ではなく、あくまで他者との対話であるダイアローグになっているようにも感じ取れてくる。

 さらに、それすら筒井は疑う。

 所詮この体験は、自分が作り出して自分で納得しようとしている行為なのだと。

 こうした諦念と希望の狭間の中で揺れうごきながら、それでもなお筒井は川のほとりで息子との物語を作ることで、自己の体験を静謐かつ荘厳な表現手段によって自ら決着をつけようとしている。

 このことは、同時に、筒井の文学的なメインテーマの一つである「無意識」の暗黙的共同性すらも我々に想起させる。

 こうして振り返って考えてみると「腹立半分日記」に登場していた筒井の作家仲間も、かなりの数が、もうこの世にいない。時代は遠くなっていく。

Share

【書評】ラズウェル細木『酒のほそ道』48巻–このところのラブコメ路線からの一時休戦で、オヤジ的には安心な一冊

 新型コロナもあって酒飲みクラスタもなかなか活動が難しい。

 そんな中で、ラズウェル細木『酒のほそ道』48巻を読んだ。

 コロナの状況で飲み屋のような飛沫拡散上等のようなこともできず、かといって超高精度のグルメ漫画に持っていくのも限界がある。

 そうなると酒飲みマンガの行き先は、飲み+恋愛という、菅首相が新型コロナ対策で発言したような、ブレーキとアクセルどっちも踏み込むというか、アッパーとダウナーどっちもやりこむというか、難しいステアリングしか路線が無いように思えるのである(余計なお世話だが)。

 今回の一冊には、実は恋愛要素の展開はあまりない。

 よくわからないが、卵焼きの黄身の焼き方と恋愛がすれ違うのか、すれ違わないのか、というファウルチップな感じの読後感である。

 はっきり言って、どうでもいい。

 ちなみに私は目玉焼きに限らず卵の黄身は檄カチカチのハード一択派なので、今回の線引きの議論そのものが”ありえない”正直ドン引きであった(すいません)。

 とはいえ、我々は「りぼん」全盛期の柊あおい「星の瞳のシルエット」連載時のアオリ”毎号クライマックス!”を読まされている訳では無いので、まさに原点回帰。良いのではと。

Share