キャリアパスを考えた場合に、ある立場の人間が、別の立場の人間に対して、「こうすべき」「こうあるべき」と言えるような優位的な立場というものは、もはや既に無くなっていることは、おそらくほとんどの人が同意されるのではないかと思う。
更に進んで「どちらかというと、こっちの方がいいんじゃない」みたいな控え目なサジェストすらも、確定的に言える場面が少なくなってきているのではないかとも思う。
キャリアパスの複線化やデジタルデバイドがそうした状況を作り出したと言える。先例となる成功事例は、急速に陳腐化していたり、そもそも延長線上から消えてしまったりと、要するにキャリアパスの「正解」が無くなっている状態なのである。
サラリーマンとしてのキャリア一本道が厳然と存在した高度成長の時代であれば、年功序列で先輩が後輩に対して自身の経験を優位価値として語れることは多かったであろう。
しかし現時点において、その構図は大企業であっても崩れている。
もう少しこのキャリアパスのアドバイスの構図を、一般的に語ってみると、自分のキャリアが、相手のキャリアに対して上位互換であるような場合には、経験を優位価値として語れるはずだ。
しかし、既に上位互換が崩れてしまい、いわば「機種・型式が違う」ような場合に、キャリアの比較検討すら意味をなさない状態になっている。
OSは同じで、CPUの動作速度が高速化するPCのような上位互換的に語れる状態ではなく、PCとスマホ、あるいはPCと自動車を比較するような、比較の意味をなさない状態になっていると思われる。
これはフリーランスとサラリーマンの対立軸でも言えるであろうし、フリーランス同士、サラリーマン同士の軸においても言えることであろう。
何を今更、と思われるかもしれない。
言いたいことはキャリアパスの上位互換が無効化されているという状態のことではなく、そのような前提においても、何故われわれは、他人のキャリアにアドバイスをしたくなるのであろうか。換言すると、なぜそれでもなお、キャリアパスの経験に基づくアドバイスが、ネットに溢れるのであろうか、という疑問である。
ニワトリと卵の例えのように、いつの時代でも悩みは共通だから、答えがあるのか?
でも答えっておそらく、ない。
経験を一般的な知見に汎用化することにより、答えとして語れるようになる?それって、薄い水割りのような、当たり障りのない言説では?
個人の特異的な経験は、それだけで価値がある?そんなの面白い体験談かもしれないけど、参考にはならないよね。
それは悩む側でも漠然とは理解しているのではないか。
むしろ、今の構図は、その前提でアドバイスする側が一方的に、様々なパターンで(悪い言い方をすると”下手な鉄砲数打ちゃ当たる”方式で)個別事例を数量規模で提示して、その中でいくつかに刺さればそれでいい、というように見える。
じゃあそれでいいんじゃない?刺さった本人にとっては良いんだから。
そうかな?
私が引っかかるのは、このモデルはSPAMメールや架空請求のビジネスモデルにそっくりだということである。
そしてその背後にビジネスの匂いを感じる。
悩み解決をお金に変えるのは、真っ当なビジネスであろう。それは当然そう思う。
しかし、そこに善意のアドバイスのようなもの、一見無償のアドバイスを提供しているような雰囲気を醸成するのは、弱者ビジネスの匂いを感じて、あまり傍目に見て愉快なものではない。
あるいは悩みを解決する順番が逆な気がするのである。
ライフスタイルをまず変えろ、というアドバイスは、実はその悩みを解決していない。
別の悩みに変換させているだけで、いわば悩みの総量は変化しない。その上で、そのライフスタイルの経験により悩みを解決する二段階型だ、という主張もあるだろう。
しかし、結局そのライフスタイルを変えたこと自体は、単なる解決のための準備の手段であるのに、あまりに大きいリスクを相手に負わせている。
胃が痛いとしか言っていない胃炎の患者に、「私は内科ではなく外科なので、まず胃ガンになってください。その上で胃を切って治します」ということを、告知もせず治療しているようなものだ。これも弱者ビジネスに思える。
むしろ悩む側が、一人で、自分の中でとことん悩む方がまだ健全な気がする。