【書評】ラズウェル細木『酒のほそ道』51巻–”KIRA KIRA”と輝く松島さんの瞳・・・・

【書評】ラズウェル細木『酒のほそ道』51巻を読んだ。近年のラブコメ+島耕作という”迷走”状態(個人の感想です)で、戸惑うばかりであったが、今回はそちらは少なめ。通常運転に戻ってきた感じがある。

今回の解説は、山形つながりで「ますむら ひろし」先生。

 ただそこでも相変わらず、日本酒の仕込みの伏流水のように確実に底流に流れている恋愛ストーリーライン。

 飲み歩きしか興味のない中年男性のモテる世界なんて現実に存在する訳ないのだが、この世界には「ある」。

”KIRA “"KIRA"って・・・・

 松島さんが、主人公岩間の俳句趣味に対して少年マンガのヒロインよろしく(注:少女マンガのヒロインではない)、キラキラ感でときめくシーン。

 ・・・・うーんファンタジーですな(苦笑&現実にと立ち戻って羨望)。

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【書評】谷川ニコ『私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!』21巻–リア充世界線以外のアフターコロナにおける”ぼっち”に思いを馳せる

 ようやくだが【書評】谷川ニコ『私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!』21巻を読んだ。

 前回が10周年の記念巻だったこともあり見所満載であったが、今回は3年生の秋の文化祭からクリスマスまでのエピソードである。カラオケボックスでのクリスマスエピソードは、こうした風景が最近ご無沙汰だったことを改めて思い起こさせる。

  相変わらずのリア充路線であり、もはや一匹狼ではなく、群れの中心になってしまっている。主人公もこっちが、むしろメンバー内の辺境感たっぷりなマージナルなキャラ(うっちー、ゆりちゃん、小宮山さん)の方へのツッコミ役になってしまっている。

 そんなこともあり、もこっち自身も「キャラ薄」を自覚し始めている模様。

 うーんこの調子で良いのだろうか。とはいえ、翻って我々のリアルな世界では、新型コロナの環境下で2年間くらいは”こうした学生生活が存在しなかった”のも事実。こうした密な世界空間に訴求される部分もあるのかもしれない(といいつつ、二郎系ラーメンへ行ったエピソードではカウンターに仕切りはあったが)。

 コロナによるステイホーム&リモート環境により、”ぼっち”にとっては実は最も適正のある生活環境になっていたはずだ。しかし、作品世界にそれを導入しても、という葛藤もありそうである。そうした中でこの作品は「コロナなき世界」に進んでいくようだが、もう一つの世界線である”アフターコロナとぼっち”の世界も見たかったような気もする。

前回記事:【書評】谷川ニコ『私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!』20巻–真の”ぼっち”であるキバ子がメインの、10周年で原点回帰した傑作巻!

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【書評】酒寄希望「酒寄さんのぼる塾日記」–融和系お笑いカルテットの絶妙な間合いと酒寄さんの巧まざるユーモア

 年末に発売された、酒寄希望「酒寄さんのぼる塾日記」(ヨシモトブックス)を読んだ。4人組女性お笑いカルテットのリーダーかつブレーンである、育休中の「酒寄さん」が書いたエッセイである。

 発売前からnotewebエッセイで、なんとも抑制の効いた文体で、仲間であるぼる塾メンバーの面白エピソードを書いており注目していた。

 この酒寄さんが書く「田辺さん」のエピソードが非常に面白い。本当の田辺さんより面白いのではないかという感じであり、まさにプロデューサー視点である。

 ここで描かれる田辺さんのエピソードは、ある意味異常に変わった人でありつつも、同時に人情味も溢れるという多面性のある性格として描かれている。

 これはこれで読者にとっては、芸人をみつめる視線として、非常に元気づけられたり、ほっこりしたり、と良い印象を与えてくれるのであるが、そうはいっても人間としての田辺さん自身はきっとノーストレスではないはず、という点が少し気になる。

 その点はプロの芸人としては見せたくない部分であろうが、本書では、これと併せてぼる塾4人の強固な関係性が描かれることにより、そちらの心配についてもある程度安心させられもするのである。

 ちなみに本書で一番笑ったのは、相方とは親しく話している酒寄さんが、出産において自分の夫と会話する文体が、思いっきり他人行儀の「ですます」調であることであった(p.387)。田辺さんとはフランクな会話なのに・・・。酒寄さんと夫とのエピソードは本書では皆無。よって、この後の伏線回収もされていない。酒寄さん自身の変人性も垣間見えるような気もするが、解決はされていないのだ。

 こうした複雑さも込みで、”癒される”不思議な読後感であった。

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【書評】施川ユウキ「バーナード嬢曰く。」6巻–神林さんの感情発露が多発の一冊

 施川ユウキ「バーナード嬢曰く。」6巻を読んだ。

 場所は図書室やカフェが中心、登場人物は4名。このシチュエーションながら、読書あるあるを盛り込みながら、10周年を迎えた模様。

 6巻では、マニアとしては王道キャラの「神林さん(表紙の人)」が、結構感情を露にする。照れてみたり、泣いてみたりと。

 我が道を行くマイペース+クールかと思いきや、周囲の影響も受けてきたのか、感情の交流や自分感情が外部に流出する表現が多くなってきた。

 読書という趣味は、基本孤独作業なので、その結果を他者と共有できる環境は常に憧れる。むしろ心の片隅で「そうしたい」と思ってはいる。

 しかし同時に、そうした快適な環境というのは現実では「ありそうで、なさそう」、おそらく「ない」のである。まさにフィクションでしか成立しない世界なのである。

 次第に、この世界自体が、”読書好きが夢見るユートピア”のような雰囲気を強くしてきたようで、この先の行方がだんだん気になってきた。

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【書評】ラズウェル細木『酒のほそ道』50巻–記念すべき50巻でも岩間の結婚ネタはモヤモヤさせられる

 先日発売された、ラズウェル細木『酒のほそ道』50巻を入手。連載27年、ついに50巻に到達ということでおめでたい感じの表紙である。

 考えてみれば酒ネタだけでこの長期持たせるというのは、すごい。絵柄としてのスタイリッシュさも古びておらず、素直に敬服するのである。

 表紙には私の気になる麗ちゃんもフォーマルな衣装で参加。

 すっかり岩間の結婚エピソードの当事者は、かすみちゃんと松島さんで進行しているが、麗ちゃんはこのまま登場してこないのだろうか。気になる。

 まえがきでも、このように「作者もわからない」と書かれている始末で、このストーリーの行方はまだヤキモキさせられるのである。

 めちゃくちゃ失礼な言い方をさせてもらうと、酒うんちくマンガなので、このエピソード自体はあまりメインではないはず(?)。

 以前も書いたが酒と恋愛はあまり相性が良くない組合せである。何やら恋愛ストーリーマンガばりに「キャラが一人歩きを始める」状態が、このような酒マンガで現れるとは・・・(ある意味感心)。しかし、どうなるのであろうか(やはり興味は深々)。

 50巻でも、そんな恋愛(というか結婚)モヤモヤエピソード(+お節介課長の松島さん推し)があるが、当然のことながら結論が出ていない。

 一体どうなるのであろうか。

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【書評】うおやま「ヤンキー君と白杖ガール」–ゆるゆるな世界から、我々に真っ直ぐに送るメッセージとは。

 2021年10月にドラマ化された、うおやま「ヤンキー君と白杖ガール」(メディアファクトリー)の1-6巻を読んだ。

 今時の絵柄でヤンキーと弱視の主人公の恋を描くコメディであるが、さまざまなバリアフリーの問題だけでなく健常と障がいの間の連続性について、ハードな内容も含まれている。

 ただ限界もあって、現段階での登場人物は全て最終的には根本に「善」がある。これは絵柄としても絶対的な悪を描ききれないこともあって、やむをえないことであろう。むしろ物語全体としての安心感を保持してくれているとも言える。

 物語空間の中で、主人公とその周辺における「万能性」あるいは「全能性」ともいえる読者への心理的安全性が担保されているのは、読み続ける意味で確かな魅力のひとつではある。

 だが、この作品において特筆すべき志向としては、こうした単純な「万能性」、「全能性」をもつ主人公カップル同士の”ほのぼの”、あるいは、”のどか”な日常では済ませない展開を暗示的に秘めているところであろう。

 特に4巻以降の主人公ユキコが外部世界に出る展開から、物語は少しずつ社会的な普遍性を帯びはじめる。世界において生きる「価値」の議論にさらされるのである。

 善人しか現れないという、一種のあえていうと”偽善性”についてはさておいて、それでもなお、”自分とは異なる何かを許容する世界はどうありうるのか”というハードな問いを投げかけてきていることに率直に驚かさせられる。

 それを、殺伐とした全ての「費用対効果」「付加価値」で還元する<資本主義>世界においても、自立的な解答として提示しようとした作者の強い意思を感じるのである。

 自分と異なるものとそうでないもの、そしてその区別意識について、我々の境界線をアナログ的に把握させようとする。

 違い、とは何か?

 ハンデキャップとはいったい何を意味するのか?

 より具体的に何と何のハンデキャップなのか?

 とどのつまり、お前と自分の差異とは何か?と。

 そして、その差異を認めたうえで、我々の多数が今この瞬間において、徹底的にこだわっている「付加価値」とはいったい何なのか?と。

 繰り返しになるが、このマンガは、確かに完全な善人しか出てこない極めて安全極まりない物語なのである。リアリズム的な描写であれば現れてきてもおかしくない生々しい悪意の塊のようなものは、この物語世界には決して登場しない(これから出てくるかもしれないが)。

 そのことを作品の瑕疵として捉えるべきではないし、そんなものは最初から本質的ではないとするモーメンタムが、4巻以降のエピソードからは、読者にとって聞こえてくるのである。

 絵柄は、ほのぼのかつ安定しない感じで、正直、技術的にはうまいとは言い難い(失礼)。だが、この作品には明らかなメッセージ性があるのである。

 それは、バリアフリーや多様性といった人口に膾炙したバズワードに染まったものではない、我々に真っ直ぐに突っ込んでくる率直な強いメッセージをもっているのである。

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【書評】卯月妙子「鬱くしき人々のうた 実録・閉鎖病棟」–単純かつ当たり前と思っている”自分を維持すること”の尊さを実感する

 待望の新作である、卯月妙子「鬱くしき人々のうた 実録・閉鎖病棟」(太田出版)を読んだ。「人間仮免中」「人間仮免中 つづき」の時代から、更に遡って20歳代の頃のエピソードが満載である。

 この作品(のみならず作者の創作力)のすごいところは、様々な精神を病んだ人々(作者自身を含めて)を語っているにもかかわらず、その視座に客観性があるところである。自殺願望や幻聴など、”病んだ人”への描写は、自他問わず極めて客観的に描かれる。誤解を恐れずに言えば、常識的な多数の人間と同じ視座なのである。その結果、ここで描かれる”病んだ人々”は生き生きと、むしろ”少し違った人”として描かれている。

 その一方で、この”病気”の恐ろしさも正確かつ実感的に描かれる。

 人間が、自らの「人格」を維持することの難しさとそれが崩壊するという恐怖。

 単純かつ当たり前と思っている”自分の人格を維持すること”とは、これほどまでに困難かつ大切なものだったのか、ということを改めて実感させてくれる。尊さ、といってもよい。

 稀有な人生を背負ってきた著者の人生そのものを、こうした表現作品として久しぶりに見ることができたことは非常に貴重な読書経験であった。

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【書評】谷川ニコ『私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!』20巻–真の”ぼっち”であるキバ子がメインの、10周年で原点回帰した傑作巻!

 連載10年、20巻に到達した谷川ニコ『私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!』20巻を読んだ。特装版付きの記念巻である。

 今回は最近の黒木リア充路線の停滞感を脱しており、非常に面白かった。

 それはやはり表紙にもなっている「キバ子」フォーカス路線だったからであろう。ある意味、読者からもヘイトを買うヒールキャラで、主人公の黒木さん(もこっち)より、真の意味で”ぼっち”なのである。

 さらに初期のもこっちを彷彿させる孤高のぼっちであり、ストロングメンタルの”二木さん”との交流もあり、これが本巻の中で、非常に質の良い青春ドラマになっているのである。

 そして脇を固める形となってしまった、もこっちの所々出てくる下ネタも良いし、もこっちストーカーの”ウッチー”がいつの間にか少しだけ成長しているエピソードもある。各キャラもそれぞれ個性を出して登場しており、オールスター風である(特装版では”きーちゃん”も出てくる)。

 10周年で改めて原点回帰したような”ぼっち”路線であり、非常に面白く読めた。最近の「わたモテ」の中でも白眉となる巻であろう。

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【書評】稲田将人「経営参謀」科学的アプローチによる、戦略策定におけるおそらく唯一の”真実”

 稲田将人「経営参謀」(日経ビジネス文庫)を読んだ。いわゆるビジネス小説でありながら、経営再建のための戦略策定のための知見が詰まっている。

 少々個人的に身の回りの変化(【近況】異動になってしまった)もあり、身につまされる読書体験であった。

 小説の筋自体は、経営企画の主人公がアパレル業界に中途入社し、社長からブランドの建て直しを求められる。この会社は上場会社だが同族経営で、マネジメントに偏りがある。

 主人公は、マーケティング調査により市場動向をプロファイリングし、再建に向けての戦略を作り、徐々に成果を出しつつあった。この過程で、いわゆる「戦略理論」を主人公がケーススタディから学んでいくことになる。

 それと同時に小説としても、主人公の活躍に対する”妨害”などもあり、こちらの面白さもある。そして、その結末もなんとも「現実的」なのであり、味わい深い。

 本書ではあくまでB2Cの領域であるが、これはB2BやB2Pなどでも同様であろう。ただ、よりプロファイル的にはマーケットの考えの推定は難しくなりそうだ。

 実地体験でも、こうした「戦略」を作る、ということで現場はかなり混乱している。

 戦略を作れ、と言われてひたすら終わりなき調査作業だけを行う人間や、市場調査、ベンチマーク、知財戦略、差別化、SWOTなど、網羅的な完成品の「目次」を渡され、それを全部埋めろ、と言われていつまでたっても終わらない作業をしている人間など。

 混乱の極みになっている風景を良く見かける。

 これは戦略を作れ、と指示したマネジメントすらも何をオーダーしたか、何が出てくるかを具体的にイメージしていないのである。こうした無駄な作業が現場では起こっている。

 本書はそうした点から一線を画している。

 簡単に新市場などができる戦略のフレームワークなどない、と言い切るのである。

 この考えは事実であるし、悲しいかな、迷っている人々は残念なことに「フレームワークをくれ」としか考えていないのである。

 迷っている人の苦しみは想像できる。

 いわばドストエフスキーの長編小説を渡されて、「これみたいなやつを作れ」と言われているようなものなのだ。

 そんなのできるわけがない。

 小説だって、あらすじから肉付けしていって完成させるのに、いきなり長編の完成品を持ってこいと言われるのは酷である。だが、繰り返すが、指示する側も、戦略を作った経験もそもそもないので、どう指示して完成させるかの正解を持っていないのである(そして自分も正解を持っていないことは明らかにしないものである)。

 では何をすれば良いか。本書では、その回答も示唆されている。

 ”正確な事実によって現状を把握して戦略を作る”、そして、”戦略とは精度の高い初期仮説であって、これを早いPDCAサイクルで回して検証する”というシンプルなものである。まさに科学的アプローチそのものである。

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【書評】奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年」”血”か”情”か、親子関係の本質を考えさせられる感動のノンフィクション

 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年」(文春文庫)を読んだ。

 昭和46年に沖縄で起こった赤ちゃんの取り違え事件。その2家族、そして当事者を、長期に渡って取材したノンフィクションである。

 昭和52年に血液型の違いから産院での”取り違え”が判明し、二人の子供は血の繋がった本来あるべき家族の元に戻される。こうしたケースでは、当時から”子供の順応性を信じて、速やかに実の関係に戻す(交換する)”というのがセオリーだったようだ。環境を離してしまうことで、時間が解決する方法といえる。

 交換後、この2組の親子はともに6歳まで育てた子供と、血の繋がった子供への愛情の間で煩悶する。

 子供たち自身も、これまでの生活環境の中でできた「家族」への愛情を断ち切ることができない。

 沖縄という地縁の強い土地、そして結果的に、2つの家族が行き来できる物理的距離のある生活環境だったことで、このケースにおいては特異な様相を見せ始める。だが、家族関係に通常も特異もないので、そもそも何が通常、正常なのかはわからないのだが。

 加えて、2つの家族がもつ特殊な環境、特に母親のあり方に「対称性」があり、次第に成長する2人の子供は1方向に傾斜していくことになる。これもまたレアなケースなのであろうか。

 結果的に成人した2人の子供は、ある片方の親とのみ親密な関係を維持するのである。

 子供にとって落ち着いた地点は、親にとっては幸せの分配が非対称になっている結論となった。

 全ての関係者にとっての納得できる結論にはなっていない。

 ”奪われた”親も、まだ先の人生においてもこのままとは思っていない。

 本書は、肉親としての”愛”と育ての親の”愛”に違いはあるのか、そういった問いかけを読者に投げかける。このケースを見る限り、おそらくそこに差異はないようにみえる。

 個々のケースにおいて、個々の事例で結論が出るのであろう。だがそれにしても、ある時間軸で切り取った場合の「結論」であり、その後も人生は続き、おそらく最終結論は出ていないといえる。

 親子の”愛情”とは、という非常に重い問いかけを提示し、読者一人一人が考えさせられる感動作である。

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