【書評】卯月妙子「鬱くしき人々のうた 実録・閉鎖病棟」–単純かつ当たり前と思っている”自分を維持すること”の尊さを実感する

 待望の新作である、卯月妙子「鬱くしき人々のうた 実録・閉鎖病棟」(太田出版)を読んだ。「人間仮免中」「人間仮免中 つづき」の時代から、更に遡って20歳代の頃のエピソードが満載である。

 この作品(のみならず作者の創作力)のすごいところは、様々な精神を病んだ人々(作者自身を含めて)を語っているにもかかわらず、その視座に客観性があるところである。自殺願望や幻聴など、”病んだ人”への描写は、自他問わず極めて客観的に描かれる。誤解を恐れずに言えば、常識的な多数の人間と同じ視座なのである。その結果、ここで描かれる”病んだ人々”は生き生きと、むしろ”少し違った人”として描かれている。

 その一方で、この”病気”の恐ろしさも正確かつ実感的に描かれる。

 人間が、自らの「人格」を維持することの難しさとそれが崩壊するという恐怖。

 単純かつ当たり前と思っている”自分の人格を維持すること”とは、これほどまでに困難かつ大切なものだったのか、ということを改めて実感させてくれる。尊さ、といってもよい。

 稀有な人生を背負ってきた著者の人生そのものを、こうした表現作品として久しぶりに見ることができたことは非常に貴重な読書経験であった。

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【書評】谷川ニコ『私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!』20巻–真の”ぼっち”であるキバ子がメインの、10周年で原点回帰した傑作巻!

 連載10年、20巻に到達した谷川ニコ『私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!』20巻を読んだ。特装版付きの記念巻である。

 今回は最近の黒木リア充路線の停滞感を脱しており、非常に面白かった。

 それはやはり表紙にもなっている「キバ子」フォーカス路線だったからであろう。ある意味、読者からもヘイトを買うヒールキャラで、主人公の黒木さん(もこっち)より、真の意味で”ぼっち”なのである。

 さらに初期のもこっちを彷彿させる孤高のぼっちであり、ストロングメンタルの”二木さん”との交流もあり、これが本巻の中で、非常に質の良い青春ドラマになっているのである。

 そして脇を固める形となってしまった、もこっちの所々出てくる下ネタも良いし、もこっちストーカーの”ウッチー”がいつの間にか少しだけ成長しているエピソードもある。各キャラもそれぞれ個性を出して登場しており、オールスター風である(特装版では”きーちゃん”も出てくる)。

 10周年で改めて原点回帰したような”ぼっち”路線であり、非常に面白く読めた。最近の「わたモテ」の中でも白眉となる巻であろう。

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【書評】稲田将人「経営参謀」科学的アプローチによる、戦略策定におけるおそらく唯一の”真実”

 稲田将人「経営参謀」(日経ビジネス文庫)を読んだ。いわゆるビジネス小説でありながら、経営再建のための戦略策定のための知見が詰まっている。

 少々個人的に身の回りの変化(【近況】異動になってしまった)もあり、身につまされる読書体験であった。

 小説の筋自体は、経営企画の主人公がアパレル業界に中途入社し、社長からブランドの建て直しを求められる。この会社は上場会社だが同族経営で、マネジメントに偏りがある。

 主人公は、マーケティング調査により市場動向をプロファイリングし、再建に向けての戦略を作り、徐々に成果を出しつつあった。この過程で、いわゆる「戦略理論」を主人公がケーススタディから学んでいくことになる。

 それと同時に小説としても、主人公の活躍に対する”妨害”などもあり、こちらの面白さもある。そして、その結末もなんとも「現実的」なのであり、味わい深い。

 本書ではあくまでB2Cの領域であるが、これはB2BやB2Pなどでも同様であろう。ただ、よりプロファイル的にはマーケットの考えの推定は難しくなりそうだ。

 実地体験でも、こうした「戦略」を作る、ということで現場はかなり混乱している。

 戦略を作れ、と言われてひたすら終わりなき調査作業だけを行う人間や、市場調査、ベンチマーク、知財戦略、差別化、SWOTなど、網羅的な完成品の「目次」を渡され、それを全部埋めろ、と言われていつまでたっても終わらない作業をしている人間など。

 混乱の極みになっている風景を良く見かける。

 これは戦略を作れ、と指示したマネジメントすらも何をオーダーしたか、何が出てくるかを具体的にイメージしていないのである。こうした無駄な作業が現場では起こっている。

 本書はそうした点から一線を画している。

 簡単に新市場などができる戦略のフレームワークなどない、と言い切るのである。

 この考えは事実であるし、悲しいかな、迷っている人々は残念なことに「フレームワークをくれ」としか考えていないのである。

 迷っている人の苦しみは想像できる。

 いわばドストエフスキーの長編小説を渡されて、「これみたいなやつを作れ」と言われているようなものなのだ。

 そんなのできるわけがない。

 小説だって、あらすじから肉付けしていって完成させるのに、いきなり長編の完成品を持ってこいと言われるのは酷である。だが、繰り返すが、指示する側も、戦略を作った経験もそもそもないので、どう指示して完成させるかの正解を持っていないのである(そして自分も正解を持っていないことは明らかにしないものである)。

 では何をすれば良いか。本書では、その回答も示唆されている。

 ”正確な事実によって現状を把握して戦略を作る”、そして、”戦略とは精度の高い初期仮説であって、これを早いPDCAサイクルで回して検証する”というシンプルなものである。まさに科学的アプローチそのものである。

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【書評】奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年」”血”か”情”か、親子関係の本質を考えさせられる感動のノンフィクション

 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年」(文春文庫)を読んだ。

 昭和46年に沖縄で起こった赤ちゃんの取り違え事件。その2家族、そして当事者を、長期に渡って取材したノンフィクションである。

 昭和52年に血液型の違いから産院での”取り違え”が判明し、二人の子供は血の繋がった本来あるべき家族の元に戻される。こうしたケースでは、当時から”子供の順応性を信じて、速やかに実の関係に戻す(交換する)”というのがセオリーだったようだ。環境を離してしまうことで、時間が解決する方法といえる。

 交換後、この2組の親子はともに6歳まで育てた子供と、血の繋がった子供への愛情の間で煩悶する。

 子供たち自身も、これまでの生活環境の中でできた「家族」への愛情を断ち切ることができない。

 沖縄という地縁の強い土地、そして結果的に、2つの家族が行き来できる物理的距離のある生活環境だったことで、このケースにおいては特異な様相を見せ始める。だが、家族関係に通常も特異もないので、そもそも何が通常、正常なのかはわからないのだが。

 加えて、2つの家族がもつ特殊な環境、特に母親のあり方に「対称性」があり、次第に成長する2人の子供は1方向に傾斜していくことになる。これもまたレアなケースなのであろうか。

 結果的に成人した2人の子供は、ある片方の親とのみ親密な関係を維持するのである。

 子供にとって落ち着いた地点は、親にとっては幸せの分配が非対称になっている結論となった。

 全ての関係者にとっての納得できる結論にはなっていない。

 ”奪われた”親も、まだ先の人生においてもこのままとは思っていない。

 本書は、肉親としての”愛”と育ての親の”愛”に違いはあるのか、そういった問いかけを読者に投げかける。このケースを見る限り、おそらくそこに差異はないようにみえる。

 個々のケースにおいて、個々の事例で結論が出るのであろう。だがそれにしても、ある時間軸で切り取った場合の「結論」であり、その後も人生は続き、おそらく最終結論は出ていないといえる。

 親子の”愛情”とは、という非常に重い問いかけを提示し、読者一人一人が考えさせられる感動作である。

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【書評】ラズウェル細木『酒のほそ道』49巻–コロナが「ない」世界線

「酒のほそ道」最新刊49巻を読んだ。酒飲み的には新型コロナによる緊急事態宣言からの流れで、首都圏の居酒屋は休業だったり、営業しても酒を出せない、制限がある、だったりと、かなり風景やリテラシーが変わっている。

 最近は「電車飲み」のような、通勤電車(帰宅)でキオスクでお酒を購入、車内で飲む、という昔の常磐線上野発で良くあった光景すら通常に見るようになってしまった。

 また都市によってはあえて「酒あります」という看板を掲げて客を誘うが焼き鳥屋など、囚人のジレンマのような様相すら見えている。どうしたものか。悩ましい。

 そんなこのマンガの世界線は実はコロナの影響はない。作者が本書の前書きに述べているように「酒のほそ道の世界には、コロナは存在しない」のである。まあ、キャラクタがマスクをされて飲食するのも味気ないし、マンガの世界くらいコロナを忘れることも「あり」なのである(ただ、羨ましいが)。

 そしてもう一方の注目ポイント、主人公・岩間宗達の恋愛ラブコメの方向性であるが、ここ数巻での動きはない。

 正月に、岩間が松島さんとかすみちゃんとの結婚生活を妄想するシーンや、タラコ唇の課長が相変わらず、松島さんを推す上に、あまつさえ飲み屋の席で2人を前に「いつでも仲人の準備はできてる」という昭和の時代のセクハラ発言をしれっとかますシーンが見どころである。

 コロナのない世界というifだけでなく、恋愛要素的にもそういう意味では超・現実、すなわち別の世界線に突入しているような気がしてきて、もしやSF要素も入ってきたのか?と思うのであった。SF恋愛サラリーマン酒マンガ・・・なかなか味わい深い。

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【書評】萩尾望都「一度きりの大泉の話」–いま造られつつある”歴史”への全面的拒絶宣言、および、自己肯定と自己否定の埋められない溝

 前記事で竹宮惠子の著書「少年の名はジルベール」を読んだ後に、萩尾望都「一度きりの大泉の話」(河出書房新社)を読んだ。

 参考記事:【書評】竹宮惠子「少年の名はジルベール」”大泉サロン”に集った少女マンガ家たちの青春と先駆者たちの苦闘、そして。

 竹宮惠子の著書が、それなりに悩みは抱えつつ基本的には明るく、懐古的(色々あったけど、今振り返ってみると良かったね!的な)だったにもかかわらず、とんでもなく火の玉ストレートな拒否のメッセージを萩尾望都が、ぶちかましているのである。もはやある時点から竹宮惠子の作品は一切読んでいない、と宣言するくらいにである。

 この話題はもうこれきりにしたい、という覚悟で、自分視点での”大泉サロン”のアナザーサイドストーリーを振り返る。そして、そこには萩尾望都にとって、許せない一線を超えられてしまった恩讐のような思いが根底にある。それこそ竹宮惠子と同列に語られてしまう少女マンガ家の「花の24年組」という歴史的解釈すら拒否するほどの。

 本書では、こうした非常に重い記述が続く。受傷した萩尾サイドの視点からの、真っ暗な部屋で一人孤独に苦しむ人の告白を聴いているような、息詰まるような緊張感で横溢しているのである。

 竹宮惠子としては「色々あったけど、私が若さゆえの一人相撲だった。ゴメンね(一応謝る)、そんな時代もあったねと〜♪」という感じで、良い思い出に包んで”大泉サロン”の歴史を総括をしようとしたものの、萩尾望都としては100%拒否の姿勢で、その献呈された著書(「少年の名はジルベール」のこと)を読まずにマネージャーが送り返すほどの状態であり、今回のこの著書によって竹宮サイドの記述を全てゼロにされるくらいの攻撃力を持っているのである。

 更に事態を悪化させたこととして、当事者以外の外野も巻き込んだのも悲劇の一端というべきのようだ。変なイベント企画屋みたいな人もこの話題に絡んできており、受傷した側の萩尾望都にとってはまさしくアイデンティティの「危機」であったのだろうと思う。

 お互い創作者として鋭くナイーブな感性を持っていながら、最終的なギリギリの局面において、「自己に対する肯定性」を持つことのできた竹宮惠子と、一貫して「自己に対する否定性」を持ち続けてしまった萩尾望都の二人は、やはり噛み合うことは難しいように思う。

 更に、萩尾がこの著書で振り返った歴史的解釈において、創作者にとってのオリジナリティに対する意識の違いが、竹宮のプロデューサー的役割、かつ、この”大泉サロン”のキーパーソンの一人への評価の違いとして描かれ、これは萩尾視点では決して埋められない溝として描かれている。

 そして、これは拡大解釈だと思うが、当時竹宮たちが同世代としてシンパシーを覚えていたであろう70年代の学生運動の高まり、すなわち「革命」に対する、萩尾からの強烈なアンチテーゼとも思えてしまう。

 ”あなた(竹宮)の総括は、歴史を権力によって都合よく事後改変しようとして批判された(学生運動の当事者が批判していた)スターリニズムのそれと同じではないか”と。

 まさに歴史がどう造られるのか、それを目の当たりにしているようだ。

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【書評】竹宮惠子「少年の名はジルベール」”大泉サロン”に集った少女マンガ家たちの青春と先駆者たちの苦闘、そして。

 竹宮惠子「少年の名はジルベール」(小学館)を読んだ。今話題の本である。 

 2016年出版のこの本が、今現在話題になっているのには理由がある。本書は竹宮惠子の自伝的エッセイなのであるが、最近になって出版された萩尾望都「一度きりの大泉の話」によって話題となった。この2つの回想を、竹宮→萩尾の順で読んでみた。

 竹宮惠子と萩尾望都がともに漫画家を目指して地方から上京してくる。そこで、ある一時期に練馬区大泉のオンボロ長屋で同居生活を行った。ここに当時の少女漫画家の卵たちが集ったという。

 これを”大泉サロン”と呼ばれることがあり、女性版トキワ荘のようなイメージとともに、ある種の成功伝説のようになっている。この女性版トキワ荘の主役の一人は、この竹宮惠子であり、そしてもう一人は萩尾望都であった。

 どちらも有名なマンガ家である。彼女たちは、新しいマンガ形式を模索するために、議論し悩んでいく。そこには熱気があった。

 この”大泉サロン”は約2年で自然に解散してしまう。それぞれが別々の生活を見つけていく。

 当時から、この解散の経緯には色々な噂があったようだ。具体的にいえば、竹宮恵子と萩尾望都の間に、何かしらの”衝突”があったらしいということが囁かれていたらしい。

 このいわば、出会いと別れからなる青春生活を、本書で竹宮惠子は自分の目線で綴っている。そして、萩尾望都との別れについて、自分から「距離を置きたい」と切り出したと記述している(p.178)。そこには、灼熱の太陽に照らされ続ける焦りにも似た、萩尾望都の才能に対する「嫉妬」の感情があったとする。

 当時はタブーであった「少年愛」をマンガによって描く、そのために固定観念に縛られた出版社の商業主義と戦うために竹宮は苦労する。まさに先駆者の苦しみである。ライフワークともいえる「風と木の詩」を掲載・出版させるための様々な戦略的苦闘も描かれるが、竹宮惠子にとって萩尾望都はそうした苦しみすらも、誰もが認める才能によって易々と乗り越えてしまうような”恐怖”を覚えているようだ。

 竹宮惠子自身も一流のマンガ家であり、何もそこまで、と読者は思う。

 私も大学生時代に読んで驚愕した名作「風と木の詩」や、社会人になって読んだSFコメディ「私を月まで連れてって」など、全く卑下する必要すらない作品群を生み出していると思うのだが、萩尾への当時の出版社の対応ー当時から描きたいものの掲載が確約された対応、やファンからの声の違い、さらに表現者・創作者としていちばん目の当たりにしたであろう萩尾のホンモノの「才能」に、本人も記載している通り「自家中毒」(p.177)になってしまったようなのである。

 この本は一貫して竹宮惠子が愚直に悩む姿が描かれているものの、全体としては明るい懐古風のトーンとなっている。ラストには改めて萩尾望都らへの感謝も記載されている。

 読後感は悪くない。振り返って様々な苦労をともにした”戦友”あるいは”同志”への”総括”メッセージとも取れる。

 だが、人間関係というものは複雑であり、2021年に出版された萩尾望都の著書「一度きりの大泉の話」によって、再びこのイメージはひっくり返される。芥川の「藪の中」と同様、それぞれの視点によって見える現実が異なっているのである。

 竹宮惠子にとっての「総括」を、萩尾望都は全面的に否定するのである。

 萩尾望都「一度きりの大泉の話」の読後感については別記事で記載したいと思う。

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【書評】宮川ひろ「春駒のうた」–被害者の受傷と加害者への攻撃性がロックオンし、その膠着からの再生の予感を描いた児童文学の名作

 宮川ひろ「春駒のうた」(偕成社文庫)を読んだ。1975年出版の本であり、児童文学作家であった宮川ひろの初期の名作である。

 「春駒」とは、伝統芸能である門付の一つのことで、馬の形をした人形を持った一座が村の家々を回り、歌や芝居を見せるというもので、春を告げる山村の一大イベントであった。

 ポリオ(小児麻痺)にかかって右足が不自由になった主人公の少年・圭治、その祖父・文三、そして担任の先生・園田が軸となって、群馬県の山奥の村を舞台に描かれる物語である。

 圭治はポリオにかかり、片足が不自由になる。松葉杖が必要になり、それによって今まで遊んでいた友人たちとの関係から、不登校になってしまう。友人たちも悪気はなく、またお互い、受け入れられたい/受け入れたいという感情があるものの、些細な「行き違い」によって、それはなされない。

 いまあっさりと「行き違い」と書いたが、それはあくまで多数の第三者的視点であることは言うまでもない。<傷つく少数者>と<傷つける多数者たち>との関係は、本質的に「対称」ではない。非対称なのである。

 つまり、本書で描かれたような稚気による”からかい”や”いたずら”が、少数者である圭治にとっては、決して単純な仲直りでは立ち直れない心理的な傷となるように正しく描かれる。

 そしてその傷を受けた圭治にかわって祖父・文三が、分校の教師たちを攻撃する場面を著者は描く。

 その行動は、戦争で父(文三にとっては息子)を無くした圭治への愛そのものに依拠している。攻撃することによって、圭治のハンディキャップをカバーしようとする思いも込められている。だが、その攻撃は集団にとっての無謬性の禁忌を刺激することになり、何も解決もなされず、かといって後退もしない。集団の事なかれ主義によって、ただ凍結させられている。これも、こうした事件の被害者と加害者の関係を象徴的に示している。被害者が次の加害者となることもある、と言うことを。

 文三の攻撃によって教師が定着しなくなった分校に赴任する若い女性教師・園田によって、この膠着状態は少しづつ変化を始めていく。しかし、それでも長続きはしない。やはり圭治は不登校になり、祖父・文三は攻撃性を捨ててはいない。

 これは全き正しい構図である。

 理想主義や超越的な何かを物語に導入することでは、こうした個々の傷は決して解決しないことを正しく描いているのである。そこに、この小説の凄さがあり、典型的な児童文学に堕ちていないことを示している。これは現代においてもレベルの高い視座であるといえる。

 そして、本書では最終的な救済を<自己>の中に求めた。

 他者はその契機を与えるだけであり、自己を救済するのは自己の内部に求められると。

 契機とは、圭治が見た、肢体不自由でも自力で立ち、歩こうとすることをやめない子供たちの姿であった。

 あくまで本書では解決の姿は描かれない。

 園田先生は、春駒の前の日にやってきて、まだ物語の最後でも春駒を見ていない。表題にもなった「春駒」はこの小説の初めと終わりを意味する「節目」を意味するだけのランドマークであり、本筋は違うところにある。

 だが、そこには受傷からの再生の予感が描かれており、その結末の描き方も非常に爽やかな読後感であった。

 

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【書評】岩井俊憲「人間関係が楽になるアドラーの教え」によるビジネスシーンでの負のスパイラルからの脱却のヒント

 岩井俊憲「人間関係が楽になるアドラーの教え」(だいわ文庫)を読んだ。

 ベストセラー「嫌われる勇気」などでアドラー心理学が話題になっていた。ただ、これをビジネス文脈まで拡張されると少々牽強付会というか、自己啓発チックな香りが漂うので敬遠していたのだが、この度必要に迫られ、読んでみた。

 ビジネスでもなんでも、うまくいっているうちは、好循環が回っているので少々の課題があっても勢いで何とかなるが、いったんそれが厳しい方向、退潮方向に進み始めると、今度は悪循環、すなわち負のスパイラルに陥る。そうなると、どんどん悪い方向に加速をつけて転がっていくことになる。

 組織もイナーシャ(慣性)があるので、いったん悪循環になると、その回転速度を遅らせ・停止させ・逆方向に回すということには非常なエネルギーを伴う。人間もそして組織も現状維持バイアスがあり、なかなか方針転換などもできないものである。

 具体的に、部門最適(個別最適)思考、部門間の壁による蛸壺思考、モチベーションの低下、足の引っ張り合いなどが起こり、いかに高性能エンジンを搭載しても、駆動伝達系の摩擦抵抗が大きいので、ほとんど摩擦熱に変わってしまい、有効な駆動力として使用されるのはほんのわずか。非常に効率(燃費)の悪いクルマのようなものなのである。

 しかし、再建・改善・改革という行為は、その経営者や一部の旗振り人間だけが偉そうに理想論を言っても効果はない。そもそもそれがわかっていれば、自力で改善できるのである。個々の人間も理解しているが、結果的には組織としては負のスパイラルになる。個人行動的に効用を重視した結果、全く意味のない結果を産んでいるのである。

 よって構成メンバの意識を、一つの目標に向かってベクトルを揃える必要がある。各自のベクトルが揃っていないということは、気体分子運動論のように、運動の方向を平均すると相殺してゼロ、マクロ的には「その場から動いていない」ということになってしまう。

 こうした目的から、再建のために構成員のマインドをまず変えることは非常に重要であり、こうした心理学的知見も援用する必要があるであろう。

 本書は「人間関係」に注目しているが、ビジネスシーンでも読み換えることができる。

 アドラー心理学では、外部環境は変えることができない前提条件とし、変えることができるのは「自分」「自分の行動」であるとする(自己決定性)。できない理由をつくり出す「原因論」ではなく、目標を決めて現在から未来への行動を建設的に考える「目的論」が重要であるとする(目的志向)。

 ビジネスシーンにおいても、

 「できない理由から入り、次から次へとできない理由を述べ続ける。また、自分でコントロールできない(環境要因)と、自分でコントロールできる要因の区別をせず議論する。そして、自分でコントロールできない要因を前提条件とせず、あくまでそれが目的を達成できない理由だと主張する」

 「過去の経緯(しかも属人的な理由が多い。権威のある誰々さんがこういった、など)を意思決定の材料とし、現在を起点に未来を考えることを避けたがる」

 「自己の既得権益にこだわるが、他人の既得権益については鈍感」

 などの例を想起し、これらは負のスパイラルのイナーシャそのものである。

 こうした事例からの脱却の直接的なヒントとして、アドラー心理学の示唆する「自己決定性」や「目的論」は有効であろう。

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【書評】白鳥千夏雄「『ガロ』に人生を捧げた男 全身編集者の告白」まさにリアル「藪の中」!編集者魂が炸裂している多重構造

 白鳥千夏雄「『ガロ』に人生を捧げた男 全身編集者の告白」(興陽館)を読んだ。2019年に「全身編集者」として少部数で出版されたものの改題再販である。

 マンガ雑誌として特異な位置を占めていた「ガロ」を発行していた青林堂の編集者であり、かつ、その休刊までを見届けた関係者としての貴重な証言が満載である。

 出版界の有名人であった青林堂・長井勝一社長の下で、商業的な成功よりもマンガ表現としての面白さ(それは世間より”尖った”才能発掘となる)を最優先とした雑誌づくり(ただ商業的成功を否定していた訳ではない)にこだわった著者のポリシーが豊富に描かれる。

 まさにサブカル全盛の時代の情勢とも相まって、「ガロ」の独自路線は王道ではないが、最先端の雰囲気を漂わせていた。

 私がたまたま持っているのは、1987年6月号。価格は430円。表紙は湯村輝彦で、まさにヘタウマでポップな感じ。連載陣もすごい。

 みうらじゅん、内田春菊(「南くんの恋人」は本号で最終回)、泉昌之、森下裕美、蛭子能収、根本敬、杉作J太郎、やまだ紫、といった、錚々たる面々なのである。

1967年9月号もあった。こちらは白土三平、水木しげるの名前が・・・

 本書は、こうした作家を支えた有能な編集者である著者のロジカルな編集論だけでなく、経営的な問題によって編集者が大量退職したガロ分裂騒動の経緯、結婚したやまだ紫との思い出やその死、さらには本人が難病に冒される闘病生活などが描かれている。

 編集道を突き詰めたとも言える白鳥の生涯の中で、その最期に自分自身もその創造対象とし、コンテンツの材料を自分の”弟子”により編集させて完成させたのが、この本である。

 この書籍の出自たる「編集」自体も非常に仕掛けが施されており、連城三紀彦のミステリー小説さながらのリアル「藪の中」的などんでん返しがある。ただ、ここで記述されたものはミステリーすなわちフィクションではない。現実の出来事なのである。

 リアルな現実に起こった出来事として、事実の集積が真実の解明に繋がらないという、われわれの現実のもつ本質的な多重構造を目の当たりにさせてくれるという、スケールが大きく、読み手にとって想像力を働かさせてくれる本となった。

 おまけ:1987年6月号の編集後記に白鳥と思しき文章があった。

(文中敬称略)

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