【ゼネラリスト】「門前の小僧 習わぬ経を読む」能力を伸ばす人とそうでない人【スペシャリスト】


 複数の中小企業の社長さんたちと話す機会があり、ある共通の表現を聞き、感心したことがあった。

 この社長さんたちは皆、いわゆる叩き上げのプロパー社長ではなく、親会社から落下傘のように赴任してきたサラリーマン社長であった。

 どの社長さんも社長になって時間的に間が無いにも関わらず、まるでその会社にずっといたかのように経営を語り、技術を語っていた。

 私が唸ったのは、今までこうした技術バックグラウンドに対して何も知識がなかったにもかかわらず、対外的には会社の代表としてその歴史を背負い、プロフェッショナルとしての安心感を聞き手に与え概論的には会社の代表として喋り、専門性の部分と非専門性の部分に対しては自分が説明する部分と自社内の専門家に説明させる部分を適度にバランスさせて語っていることであった。

   まさにずっと前からこの会社の社長みたいに思えるのである。

 感心している私に対して、社長さんたちが若干の謙遜を見せながら、自分のことを喩えて言ったのが、この「門前の小僧習わぬ経を読む」である。

 要するに、違った環境の中に置かれても、それを吸収し身につける力のことである。それを少し謙遜して語っているのだが、やはりこれはその人の持つ能力の高さであって、誇って良いことであろう。当然社長を担ぐ側でもレクチャーする体制はあるにしても、である。むしろ、そうした順応性があるが故に親会社も彼らを社長として指名したのであろう。

 この「能力」は、別にこうした社長だけに限るものではないと思われる。

 例えばある組織に属している一般の社員でも、対会社として別の会社の社員と対峙したとき、どうしてもその会社を代表するような言葉を出さなくてはいけない場合がある。大企業であればあるほど、自分の組織、自分のテーマのみの知識に限定される中で、全社について語る場合、やはり耳で聞いた他の部署のことを想像しつつ語る必要に迫られるであろう。

 これは小さい組織の単位でも同じで、例えば一つの課の中に複数の開発テーマがあり場合を想像してみる。テーマ群の全体像を知っているのは、それを統括する課長だけであり、それ以外の課員は自分のテーマしか詳しくは語れないであろう。しかし、場面が変わり、他の課員と対峙する場面があった場合、どうしてもその課を代表して全体を語る必要に迫られる。そこで、課の会議などで耳から聞いた他のメンバーのテーマ報告を思い出し、それを自己(自分の課)のものとして語る場面というものはどうしてもある。

 スペシャリストほど、こうしたことを難しいこととして感じるようだ。そこで「わかりません」とギブアップする人もいる。いわゆるゼネラリスト、広く浅くの場合、他人のテーマ報告を聞いているだけで、あたかもそれを自己のものとして客観的に語ることのできる人もいる。そうした人の方が、どちらかというとライン管理職としては出世する傾向にあるのではないかと思う。

 つまり、キャリアアップとともに、自分のテーマだけを深く掘り下げるよりは全体を俯瞰して語れる人の方が重宝される(乃至は出世させやすい)と言えるのではないだろうか。

 そしてこの能力には、結構個人差があると思う。得意な人と不得意な人がはっきり別れる。

 更にはこうした理解力、把握力をビジネススキルとしてはあまり一般的に認知されていないので教育する体系もない。あるいは、その能力が高い人を素直に高いと感じられず、単純に「知ったかぶる人」「でしゃばり」としてメンターとして敬遠する例もあるだろう。

 何故だろうか。

 それは「門前の小僧習わぬ経を読む」の持つ意味の二重性にある。

 良い意味としては、「一を聞いて十を知る」すなわち新環境に対する順応性であり、俯瞰した把握力(鳥の目)である。

 その一方で「一知半解」(なまかじりで、知識が十分に自分のものになっていないこと)というビジネスの姿勢としての悪い意味が含まれるからではないだろうか。

 ただ、やはりこうしたスペシャリスト系のキャリアは比較的加齢に対して厳しくなる(若い競争相手も出てくるし、新技術への対応力も衰えてくる)。従って、どこかで聞きかじりに留まることなく、良い意味での理解力、すなわち、自分の専門領域外への言及力、全体俯瞰力を鍛えておくことは、キャリアアップにおいても無視できない意味があると思われる。

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