【ご当地グルメ】本場の鮒寿司の旨さに目覚める

 発酵食品、特に臭いもの系に興味がある。
 鮒を米と混ぜて乳酸発酵させた保存食である、滋賀県名物の「鮒寿司」を入手した。

 以前通販で購入したものは、ものすごく酸っぱくて、どうやってもとても食べれず、その後敬遠していた。

 先日関西方面への出張の際に、リベンジで購入。

 ちゃんと食べ方のメモも付属しており、初心者向けのお茶漬けにして食べてみたら、これがめちゃくちゃうまい。もちろん例の臭いはあるが、それよりも旨味が圧倒的に優っており、以前食べたものは何だったのかという思いと、やはり安易に通販で探さずちゃんと探さないとだめだなあと思った次第。

 琵琶湖産の二ゴロ鮒の鮒寿司真空パック

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日本の半導体産業の行方はどちらだ?

東芝の再建の行方が大詰めを迎えている。特にキャッシュを得るために売られる優良セグメントであるフラッシュメモリーの売却の行方が、日本の半導体産業の行方、最終的には国策まで言及された形で報道がなされている。

日本の半導体産業の”衰退”に関する報道・議論は、これに先立つDRAMのエルピーダ(現:マイクロン)への集約の頃に一時ピークを迎えていたように思える。2000年前後の頃である。

たまたま過去(といっても2010年頃)に同時に購入した本。どちらも光文社の書籍で、隣同士に並んでいた。

”どっちなんだ”という感じ

どちらも半導体業界では著名な方です。中身の紹介や私自身の意見はまたいずれどこかで述べたい。

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SF的発想と不謹慎

 民間会社では5カ年くらいのスパンの中期経営計画や、更にスパンを伸ばした10年くらいの長期計画を作ることが多い。上場会社などでは、その内容を公開したり、ステークホルダーに対して説明したりすることもある。

 基本的に成長戦略を策定するので、現状のシェアをどうやって伸ばすとか、新規参入分野はここだ、といった、いわゆる右肩上がりの形で戦略が語られることが多い。

 いくら未来の話とはいえ、実現できないシナリオを語るわけにはいかないので、あくまで常識の範囲(=既存の科学技術の発達の予想範囲)でそれらは描かれる。株主にしても、”我が社は2020年にどこでもドアを実用化して、2025年にはタイムマシンを実用化します。そのロードマップを以下説明します”という夢物語は聞かされたくないだろう(本当にあったらすいません)。

 その一方で、例えば、福島第一原発の廃炉に向けた議論(しつこい)は、そうした科学技術のイノベーションも含めたロードマップを描く必要があり、策定も実行も非常に苦しそうだ。

 イノベーションは不連続な事象なので、これを計画には描きにくい。でも、イノベーションが起こらないのか?と言われると、その大小レベルは違うにせよ科学技術というものはその本質として前進するものだ(=イノベーションは起こる)と私は信じている。

 原発の廃炉、即ち溶融核燃料を制御可能な状態にするために、現状よりもっと開いた形で、自由な発想を集約するような体制で検討した方が良いのではないかと思う。シビアに考えると近い将来、原発設備の構造的な劣化、設計寿命が訪れた際に、もう一度重大局面が訪れると私は予想する。そこに向けて、ある意味幅広い視点、即ちSF的視点も導入してブレーンストーミングをしておく必要があるのではないかと思う。

ロボット開発においては

・放射線に対して電子部品は本質的には弱い。

・電子部品は電子の流れを利用しているが故に応答速度が早く、かつ、
 微細化を可能としているが、電磁波との相互作用には弱い。

・電子部品はあくまで電子の流れによる回路なので、電子を使わない制御装置はできないか?

・つまり放射線(電磁波)と非干渉に動作する制御機器ができれば解決するだろう。

・例えば流体コンピュータがそれに該当するだろう。

・でも流体素子は移動速度が遅いし、微細化が難しいよね・・・。

・逆に移動速度が早く、微細化可能な流体素子が技術的にできれば解決する?

など。

 真面目に考えている方々からは”遊びじゃないんだぞ、ど素人が”とお叱りを受けそうだが、絶望的な未来を考えて悲観的になるのではなく、この手のSF的発想もまた検討する余地があるのではないかと思っている。

 ただ本職のSF作家のブレストはもっと”良い意味で”ひどいので注意が必要だ。

 小松左京『やぶれかぶれ青春記』(ケイブンシャ文庫)所収の「気✖️✖️い旅行」(かけない)や、
 かんべむさし『第二次脱出計画』(徳間文庫)の冒頭などに出てくる、SF作家内部の不謹慎を恐れない”自由な”発想で、半分真面目に考えてみた時に、不連続でぼやけている未来像が少しでも明るくなるのではないかと思う(無責任ですいません、と逃げを打っておく)。

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古本屋巡りは念力とともに(オカルト注意)

週1回”行きつけの”古本屋を巡回することを続けている。

いわゆるブックオフのような大型古書店ではなく、昔ながらのタイプの古本屋で、店の前には「100円均一」の文庫や”茶色くなった”全集本などがワゴンで出されている。

最近はこうした古本屋が減少してきたような気がする。

ブックオフにも100円棚などもあるが、最近は”現代型せどり”(私の造語)というのか、携帯型バーコードリーダーを持ったシステマティックな半分業者みたいな人間が多く、そうした人々はどうしても変な(うまく表現できない)オーラを発しているのか雰囲気が殺伐としてしまうので、好きになれない。

ただこうした古本屋にしても、老人を中心とした唯我独尊タイプの人々が生息しているが、これはもう店と一体化しているような感じで、店の雰囲気としては不調和にはなっていないように思える。

私の古本探索は若干オカルト的で、”念じれば叶う”というもので、常に探書しているリストを頭で強く念じながら、本棚の背表紙を目でスキャンしていく。そうしていくと何かありそうな一角には、”ありそう”な感覚を覚えるようになる。そして”ありそう”な一角を今度はじっくり凝視していると、そこに目指す本が並んでいる・・・

書いていて我ながら気持ち悪くなってきたので、あまり掘り下げないが、先日探していたフィールディング『トム・ジョウンズ』(岩波文庫)1から4巻の美本が一冊100円棚にあったのには痺れた(ただ、この手の本が出るのは別の兆候(新刊が出るとか)もあるのであくまで個人的に嬉しいだけだが)。

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【書評】つげ忠男『けもの記』の続きが読みたい

 好きなマンガ家の一人に、つげ忠男がいる。

 『無能の人』で有名なつげ義春の弟で、兄のようなシュールさ、リリシズム、ユーモラスな作風には遠く、底辺労働者の生活や辺境の地を舞台にした、やりきれない現実を描いた作品が多い。

 ただし、その絵柄は非常にドライでむしろスマート、対極にあるはずのわたせせいぞうのタッチに近い感じすら見受けられる。

 マイナーマンガ雑誌「ばく」に1987年に連載されていた「けもの記」を追いかけていたが、雑誌の休刊(最終号には、雑誌の目玉だったつげ義春が”落とした”結果、インタビューが掲載されていた記憶がある)により、未完(第一部完)のままのようだ。

 「けもの記」は、ある場末の街で起こった殺人事件の犯人の生い立ちを刑事が追いかけるストーリー。犯人やそれらをめぐる人々にとって、高度成長が終わり日本の労働環境が激変する時代環境が、行動のバックグラウンドとして強く示唆されるところで終了している。

 まだ現役なのかは全くわからないけど、続きを描いて欲しいなあ。

つげ忠男『つげ忠男漫画傑作集3 けもの記』(ワイズ出版)1996年

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SF小説を書いてみた②

「海中マカロニ」

あらすじ:
 消息を絶った植民惑星の救援に向かったエヌ隊長と操縦士が見たものは、惑星を覆い尽くした海とその中を漂うマカロニのような生物の群れだった。 海とマカロニは海中で様々に輝く光の波を使って情報を伝えており、マカロニとは消息を絶った入植民が“裏返った“姿だった・・・(本編を読んでみる)

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SF小説を書いてみた①

 古本屋で見つけた、ハヤカワSFシリーズのロバート・シェクリイ『人間の手がまだ触れない』を読んで、センス・オブ・ワンダーに今更ながら驚き、自分でも書いてみようとしたものです。

「スイッチング」

あらすじ:
 ロボットが人類と同様の知性と人格を持つことが技術的に可能となり、人類が滅亡した後も地球ではロボットが文明を発展させていた。
 しかし、その知性と人格を人工知能に与える特殊な信号を産み出す素子は実は信号発生回路ではなく、宇宙から地球に飛来する信号の受信器(アンテナ)に過ぎなかったことが判明する。
 ロボット文明は自らの存在の起源を調査するために、信号の発信源である中性子パルサーへの探索を決断する。
 そこでロボット飛行士が見たものは、惑星全体が大規模な流体素子回路を構成し、自然が作り出す流体の演算によって信号が生成されている様子だった・・・(本編を読んでみる)

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福島第一原発事故と安全弁

■大震災から6年がたった

大震災は関東で遭遇した。幸いと言おうか、自分の周りでは大きな被害はなく、仕事への影響も半年くらいで収束していった。

■福島第一原発事故の推移

当時、福島第一原発事故の進捗を結構気にしていたと思う。特に冷却水が注水できない状況など、かつて私自身も化学プラントなどの安全設計の経験がある中で、部分的に報道される原子炉のパラメータから状況の深刻度をなんとか理解しようとしていた。

結局、絶対的な情報不足もあって、起こっている事象を理解することができず、最後はただただ眺めているしかなく、いつしか日常の中に溶け込んでいってしまった。

最近になり、ようやく公開された東京電力のTV会議画像や文献を見たり読んだりする機会があり、実際にはより深刻な状況であり、現場ではまさしく死線のギリギリの中で復旧作業を行なっていたことがわかった。

■圧力上昇、容器破壊の危機

特に、放射線防護の観点から核燃料の閉込め機能を担保する構造体である原子炉圧力容器及び格納容器が、核燃料空焚き状態になった結果、その崩壊熱で内部蒸気の圧力上昇が発生し、その圧力が設計圧力を超えて、容器自体が破裂し広範囲に放射線被害が拡大する可能性が高まっていた時点が最も危険な状態であったと思う。

そこで、何が起こり、結果として容器自体の大規模破損は免れたことは事故調査報告書、文献、TV番組などで、ある程度明らかにされている(ただし、2号機の圧力低下の原因はよくわかっていないと思う)。

■圧力容器ベント(圧力解放)をめぐる理解できないこと

それらを通じて、未だに理解できないことがある。(これは単なる私の不勉強に起因する知識不足が主な原因であって、原子炉設計者にとっては自明のことであったり、私の誤認識に基づいていることもあるかもしれない。予めお詫びをしておく)

それは、圧力容器及び格納容器の「圧力容器構造」としての安全弁に対する設計指針である。通常、高圧ガスの容器などでは、法規により安全弁、破裂弁を具備する必要がある。

これは例えば液化ガスの貯槽が真空断熱機能の喪失や火事などにより急激な温度上昇を受け数百倍の体積に膨張した場合、圧力容器の破壊を防ぐための最終安全機能である。

圧力容器が破壊することによる外部へのリスク(例えば金属の飛散)を防止する非常手段であり、通常バネ式や破裂板など、機械的な機構が用いられている。

また、安全弁と容器をつなぐバルブ(安全弁元弁)も通常は存在させないか、交換などのメンテをする場合に備え間に安全弁元弁を設ける場合でも、常時開としておく。人が間違って操作する場合もあるので、ハンドルを撤去する、こうした手段を講じている(はずだ)。

また、内部のガスが特殊で大気環境に放出すること自体がリスクを伴う場合には、放出する2次側の配管ラインをスクラバーなどの廃棄処理ラインへと接続する(はずだ)。

このような手段により、万が一にも操作員が全員いなくなっても、バネという機械の力によって容器破損という最大のリスクを発生させないような手段を講じている。

ありえない例だが、人類がこの瞬間に突然絶滅しても、圧力容器は破裂しないで、時々安全弁が吹いて容器内の圧力を設計圧力以下に落としている光景が見られるはずだ。が、原発ではそうではなかった。

まず、機械的に圧力上昇を防ぐ破裂板と容器の間には、電動でのみ動くバルブ(注1)が存在していた(これは推測だが、ノーマルクローズ;電源喪失時閉動作と思われる)。

これが津波の電源喪失により駆動できなくなった結果、圧力容器及び格納容器の圧力破壊の状況に直面することになった。

現場では急遽、そのバルブを動作させるための動力源(バッテリーやコンプレッサ)を探索する状況に追い込まれ、対策の時間が失われていった。

設計規格における圧力容器の板厚は材料力学の破壊公式に対して3倍くらいの安全率は見込んでいると思われるが、長期運用において減肉が起こっているはずだし、また実際の製造工程におけるばらつきも含めると設計圧力以上で持ちこたえられるかどうかは厳しいと考えるのが自然だろう。

3/14頃の2号機のベントができない待った無しの状況下で、現場にいた技術者の心情を考えると、こちらも胸が苦しくなる。

■どうしてこのような設計思想になったのか

何故こうした状況に至ったのだろうか?

プラントとしてのリスク解析上、設計時にどのように評価されたのだろうか?

圧力容器及び格納容器には、核燃料の閉じ込めと圧力維持の機能の両立が求められていた。

これは相反する機能であって、それぞれのリスク(核燃料放出と圧力容器の破壊)を評価した上で、最終的な安全対策に至っているのだと思う。

ここで勝手に推定すると、圧力容器内圧上昇に対する破壊リスクに関して、ベントラインにノーマルクローズの電動弁を存在させて緊急時に人的介入を不可避としたことは、核燃料閉じ込め機能を、容器破壊よりも優先したという判断・評価がなされた結果(注2)なのではないかと思う。

その結果として容器破壊の際に、本来は破壊弁が破裂するべきタイミングでそれがなされないという、設計者にとって悪夢のような事態が現実となった。

安全弁、破裂弁(注3)を放射線防護(閉じ込め)機能の一環と解釈した場合、確かに閉じ込めを阻害する可能性要因と解釈されるが、一方で圧力破壊に対しては有効に働く。このトレードオフを、トータルの設備安全としてリスクを最小化する観点でどのように解消する議論がどのように結論づけられたのか、そうした議論が当時あったのかも含めて、私自身は今も疑問がある。今後も考えて行きたい。

注1:設置位置が放射線管理区域内にあって遠隔操作が前提でも、手動併用にすること、ノーマルオープンにすることはできたのではないか。

注2:電動弁をノーマルオープンとした上で、破裂弁2次側を何らかのフィルターに通すことも今となっては結果論で想像できるが、当時の考えでは、放射線を含んだ気体の大気放出系統を設計上作りえなかったのかもしれない。

注3:安全弁と破裂弁の機能は本来異なる(安全弁は可逆動作、破裂弁は不可逆動作)が、ここは安全弁として包括して議論した(実際に原発に搭載していたのは破裂弁である。安全弁ではなく、破裂弁が搭載された理由として、圧力降下に必要な流速確保に技術的な問題があったのかもしれない)

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竹下登のズンドコ節は何かリズムがおかしい

権力の源泉ってなんだろう

 私は政治にはあまり興味がない(しれっと)が、”政治家”には興味がある。好き嫌いは抜きにして、小沢一郎の波乱の政治人生は結構ウォッチしてたりする。

 政治家の何に引っかかるかということを考えてみると、最終的には「他人を従わせる”権力”の源泉はどこにあるのか」という疑問なのかと思う。

報酬関係-見返り-による組織制御

 派閥を作り、金を集め、子分に配る。ポストの面倒を見てやる。色々な便宜を図ってやる、など、平たく言えば金を持っている奴が、見返りとして他人を従わせる力を持つという世界は確かにありそうだ。

 派閥的な力が弱くとも大衆からの人気があってトップに立つ場合もあって、こうした人たちは金や組織がなくても権力を行使できそうだが、これも”選挙で勝たせる”という報酬との交換がありそうだ。

会社の組織

 では会社組織はどうか。会社組織はその組織が階層的になっているので、上下関係(人事権)は明快だ。さらに予算もその組織ごとにつくので、予算を掌握し、人事権を持ったものに権力がある、これは間違いないだろう。

 そこにはこの人に従えば良い地位を得られる、給料が上がる、逆に従わないと罰がある、といった報酬関係がありそうだ。

でも、報酬関係だけで、従っているのか?

 我々のような個人であっても、様々な場面で、例えば業務上の規定に寄って、上司から部下への指示があり、基本的にこれに従っている。従わない場合でも、その行動自体に大きなストレスを受ける。

 ただ、その行動の強制力の源泉とは、報酬関係だけなのだろうか。金や地位の引き換え(罰への恐怖)だけのためにしては、従わなくてはならない行動のリスクが大き過ぎる、という場合はないだろうか。

 個人と組織は本質的に非対称な関係にあるのだから、常にこうした状況は程度の違いによって普遍的に起こりうるように思える。時には、個人の様々なプライベートや大事なものを犠牲にしてまで、従わなくてはいけない権力あるいは権力の形をしたものが存在しているようだ。

 では、何か根源的な肉体的恐怖、相手が単純に”強い”から、人は従っているのだろうか。

強くなくても従わせる場合もある

 晩年の毛沢東のように、体の自由を失って僅かに意思疎通ができるような状態においても最高権力を掌握する事例もある(注)。

 もはや人工呼吸器で生命をつなぎとめているだけの、自分の意思では指ひとつ動かせないが、存在していることだけでも権力を維持できる仕組みがあるのだろうか。

 つまり、肉体的な強靭さと権力は無関係なのだろうか。

最高権力者でも組織を制御できない例もある

 また、組織を動かすこと自体は、必ずしも最上位の権力者の自由にはなっていないことも多くある。かつての東芝の西田会長(当時)退任時に、西田会長(当時)は佐々木社長(当時)に対して完全に権力を行使できていたとは言い難かった。

 参考記事:【書評】大鹿靖明「東芝の悲劇」(幻冬舎)に見る、最後まで人間に残る”名誉欲”という宿痾

 また、ちょっと例は違うが、福島第一原発事故の際の菅首相(当時)をはじめとする首相官邸は、民間会社だがほぼ独占企業である東京電力を制御できず、全く統制が取れていなかった。

 参考記事:フロントライン・シンドロームと兵站の問題

 参考記事:【書評】新刊『福島第一原発1号機冷却「失敗の本質」』に見る連鎖複合事故におけるマネジメントの困難さ

 つまり権力を行使すること自体も非常に難しい。直属の部下であっても、自分の意思で動かすことができないこともある、ということだ。

竹下登=”怒らない権力者”という怖さ

 そこで表題の竹下登元首相に戻る。田中角栄や小沢一郎のようなどちらかというと強面系、親分系のリーダーではないが、田中角栄が倒れた後に、長く権力の座にあった。そして一般的にその政治手法は田中とは異なり調整系、気配りでなされていたと言われている。私の印象では、竹下登の風貌やその所作には”強さ”は見られず、ひたすら総意をまとめ合意に導く調整型政治家に見えた。

 そしてそうしたソフトなスタイルでありながら、決して周りから消去法的に推された訳ではなく、自らの意志で最高権力者に上り詰めたことに対して、疑問が最後まで残っていた。

 言うなれば、強さを全面に出さないような態度で、本当に権力を掌握、維持することは可能なのだろうか。他人に恐怖感も与えずに、相手を自分の意思に従わせることはできるのだろうか。

 その後読んだ、岩瀬達哉『われ万死に値す ドキュメント竹下登』(新潮社)によれば、やはり実際の竹下にはその風貌とは異なり、もっとドロドロとした野望があり、またその”怒り”を前面に出さない理由が、その竹下の経歴の中に隠されていることがわかった。

 実際の場面で竹下が、他人に対して強制力を行使する場面はどうだったのだろうか。その風貌が温厚に見えるが故に、そこに底知れない恐怖がある。

 関連記事:【書評】C”調整型”政治家の裏の一面にある”凄み”

もうひとつの謎 ズンドコ節

 これはどうでもいい話だが、岩瀬前掲書によれば竹下は、宴会の余興で「ズンドコ節」の替え歌を歌っていたらしい。いわゆる”10年経ったら竹下さん”というフレーズが有名で、Wikipediaにも歌詞は乗っている。

 これがものすごく語呂が悪い。「ズンドコ節」は「海軍小唄」として知られた歌だが、最初のフレーズから、

”汽車の窓から 手を握り”(海軍小唄)

”講話の条約 吉田で暮れて”(替え歌;岩瀬前掲書p.112)

 となって、「海軍小唄」が音韻で7-5-7-5-7-5で進行するのに、替え歌は8-7-7-7-7-7という全くの無視した進行。歌うのも大変だと思うのだけど、本当にこれは歌われたのだろうか?

 ちなみに大下英治「田中角栄 権力の源泉」(イースト新書)では歌詞が異なっている。田中角栄に反旗を翻した創生会旗揚げの際に、あろうことか角栄の前で歌ったとされる、上記の最初のフレーズは

”佐藤政権 安定成長”(大下 p.422)

 であるとする。しかし、 やはりリズム(文字数)はおかしいのは変わらない。なお、岡崎守恭「自民党秘史 過ぎ去りし政治家の面影」(講談社現代新書)では、岩瀬前掲書と同様「講和の条約 吉田で暮れて」(p.34)である。

謎だ。

注:小長谷正明『ヒトラーの震え 毛沢東の摺り足 神経内科から見た20世紀』(中公新書)に詳しい。

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