”奥”とか”裏”がつく地名に潜む辺境感に興奮する

辺境という感じにそそられる。

今まで一番それを感じたのは、北海道の道東、野付半島である。

社会人になって苦しい日々を過ごし、土日も深夜も関係なく頭脳労働(今にして思うとそうではなかったが)で消耗し、ゴールデンウィーク初日に突然やることがないことに気づき、何故か羽田空港へ行った。

当然GW開始なので、ほぼ全ての便が満席であったが、なぜか唯一空席があった「羽田ー中標津」便をその場で購入、着の身着のままで機上の人となった。

中標津空港で、レンタカーをゲット、中標津市内のビジネスホテルをその場で予約した。

数日かけて、知床、斜里、羅臼、釧路、別海、根室を軽自動車で回った。長い長い国道にほとんど他にクルマはなく、非常に気持ちが良かった。

一番良くて、今でも思い出すのが、野付半島である。このどん詰まり感、辺境の極致に痺れた。

だって、誰もいないのだから。定住している感じがまるでない。

でも人類はここまでやってきた訳で。

このどん詰まり感は何故か知らないが非常に私の感性を刺激する。宮本常一の論文でも同じような気持ちになる。

何故ヒトは移動するのか。その動機は何なのか。定住することは非常に楽だ。ポテンシャルエネルギーの底のようなものだ。でも、そこを飛び出して移動する人々がいる。移動した人々の一部はそこで定着する、でも、そこでもまた移動する人々がいる。単純には”食い詰め者の夜逃げ”と言えるものかもしれないが、それだけではこの拡散のダイナミズムを説明できないであろう。

ある種の好奇心というか、敢えて未知の土地にチャレンジするフロンティア精神が我々の本能に含まれているのであろうか。

その結果として、地球の辺境=どん詰まりがあり、そこに何かが吹き溜まる。それに非常に興味が湧くのである。

どん詰まりというのは、いわば交通工学的には閉塞路である。人間の流れが、通過する場合には、閉塞路でなく、開放路になる。これは箱根など、山道で地形的には閉塞となりそうだが、実際には交通の流路、すなわち開放路であり、そこには、新鮮な人モノ情報の流入が常にあり、様々に発展していった。

私が気になるのは、そちらではなく、閉塞路である。どん詰まりにおいて、人間の生存に何が起こるか。

そんなこだわりもあって、地名に”奥”とあると非常にそそられる。

奥相模、奥多摩、奥高尾、奥湯河原、など。

“奥”とついた時点で、何かその先端を見届けたい気持ちがあるのだ。

野付半島の最先端で見た、干潟にある自然、強風に煽られ続けて矯正された形状の自然、こうしたイメージとリンクするのである。

なので、”奥”***とか、”裏”***などとつく地名があると、車のハンドルを切って、その境界線まで行きたい自分を抑えることができない。

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