中島みゆき

再生の意思としての”キップ”:中島みゆき「ホームにて」と吉本隆明「涙が涸れる」


 注意:完全に自己陶酔して執筆しています。

 中島みゆきの数ある名曲の中でも、私のベスト1は「ホームにて」である。

   ゆっくりとした静かな曲であり、その歌詞は抽象的であり、聴く人によって多様な解釈ができるようになっている。

 ファンの間でも、詞の「主人公」が男性なのか女性なのかという論議があったと聞いている。

 実は、この詞には主人公の存在自体が、明確に規定されていない。

 歌詞で言及されているものは、”ふるさとに向かう” ”最終列車(空色の汽車)”があり、場所としては ”ホーム”、登場人物は ”駅長”、”帰りびと”があるだけである。そして、主語としては単に歌い手じしん=<私>が暗示されているだけであり、その<私>でさえも、揺れ動く不確定な視点あるいは視線のように、歌詞の進行によって次々に空間的に移動し風景を切り取っているだけのぼんやりとした存在である。

 ここで、<私>が男性であるか女性であるかは本質的な問題ではないと思われる。

   むしろ、ここでは<私>という存在があり、その存在の規定には生死すら超えて定義されているという点に注意したい。つまり、時間的に大きな自由度を持つと同時に、実在性を極限まで収束させた単なる視線としての<私>だけが確かにそこにいる、というミクロな構図のみが確実になっているだけなのである。

 この歌が、”ふるさと”へ向かっての「新たな旅立ち」(往路)あるいは「旅の終わり(帰省)」(復路)双方の意味に解釈できる理由もそこにある。意図的に時間的に多様に解釈できる大きな自由度を与えているからだ。

 その一方で、空間的には一定の意味によって制約されている。それは、駅のホームであり、最終電車の車内である。ただし、そこでも”閉まりかけるドア”を見る視線はどちら側にいるのか、明確ではない。ホームにいる可能性もあるし、車内にいる可能性もある。<私>はどちらにいるのか。彼岸なのか、此岸なのかは確定されない。

 歌詞の中では、実在性のない<私>の視線が空間的にいくつかの地点を移動するだけである。

 しかし、歌詞の進行は次第にその総括的なベクトルを収束し始める。つまり、”ふるさとへ向かう”方向は、やはり一方向で非対称なのである。言うなれば戦場に向かう軍人のように、その行く先には帰還を期待してはいない。

 だが、それもマクロな「歴史」においてはただの「さざなみ」に過ぎない。

 グローバルかつマクロな歴史的時間を1つの座標軸に取った上で、空間的に一部を切り取り、その局面におけるほんの少しの非対称な出来事を歌っているだけの、この単純な歌に、なぜ、私たちの心はこれほどまでに揺さぶられるのであろうか。

 この構図は、歴史の中で繰り返される普遍的な<出来事>と言い換えても良い。

 ではその<出来事>とは何か。

 最終電車が到着したホーム、街とふるさとの対比、”帰りびと”と<私>の対比、これらを手掛かりにかんがえてみる。

 これらの材料を加えても、この<出来事>が何であるかは決して確定しない。<私>は、決断をしたのか、していないのかすら、未確定なのである。

 私にはこの歌を聴くと思い出す現代詩がある。

 吉本隆明の初期の名作『涙が涸れる』である。

 以下一部引用する。

(前略)

胸のあいだからは 涙のかわりに

バラ色の私鉄の切符が

くちやくちやになつてあらわれ

ぼくらはぼくらに または少女に

それを視せて とおくまで

ゆくんだと告げるのである

 

とおくまでゆくんだ ぼくらの好きな人々よ

(後略)

 引用終わり

 この詩も抽象性が高く、一義的な解釈が困難な詩である。

    あえて大胆に語ることが許されるとするならば、敗北の後の再生を、歯を食いしばって歌ううたであると思う。

    そして、”とおくまでゆくんだ”というフレーズは、その目指すべき再生の目標に対する非常に高い思想の射程距離を示している。同時に、一方向性、すなわち、非対称な特性もまた示している。

 そして、「涙のかわりに」出現する「バラ色の」「切符」。

 中島みゆきにおいても、2番において”溜まっていく空色のキップ”として表現されている、この”切符”=”キップ”とは、いったい何を意味しているのであろうか。

 往路であろうと復路であろうと、目標とする到達点があり、その目標を見出すまでに、我々は何を経験することになったのだろうか。

    おそらく「敗北」の経験があったのだと思われる。

   その「敗北」からの再生、すなわち人間の生活を組織するために、我々は大きな意思の力を必要とする。

 その意思を示すメタファーとしての”切符”は、「敗北」の結果として、くちゃくちゃであり、溜まっていく、弱々しいものとして描かれる。

 しかし、それなくして再生のための出発はなく、敗北の中で、一度は意思を固めた証としての証跡、”キップ”=”切符”は存在する。そして、歌詞および現代詩それぞれ、全体の中で大きな効果を上げている。

 こうした表現技術によって、中島みゆきの「ホームにて」において、我々が歌い手=<私>の個人的出来事と汎時代的に現れた普遍的な出来事とを、固く締結する効果を生む。

    その出来事とは何か。

 敗北からの再生である。

 そして、再び立ち上がる意思表示(契約=キップ)とともに、我々の小さな出来事自体が、より大きな普遍的出来事と結びつけられ、勇気をもたらす。

 そのとき、ちっぽけで弱い我々の心が、反応するのであろう。

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作成者: tankidesurvival

・男性 ・アラフィフ ・技術コンサルタント ・日本国内の出張が多い ・転職を経験している ・中島みゆきが好き ・古本屋が好き