流行りの”マリトッツォ”を食べてみたが、アラフィフには胸焼け必須

 最近私の視界に入ってくる「白い塊」がある。

 ダイエットを続けており、危険を告げるセンサーも働いているのであるが、その一方でカロリーモンスター的なセンサーも働くのである。

 それは今流行りの「マリトッツォ」である。

 フォルムの単純な”ただただ生クリーム”感。

 これはそそる。

 が、同時にカロリーもかなりありそうな気もするので、手に取るのは躊躇う。

 しかし、ここまで流行り出し、行くパン屋などで何度も目に入ってくると、もはや一度ならいいだろう、という気になってくる。

 これが宣伝効果でもあり、私のような遅れてきた大衆にまでブームが展開する瞬間なのであろうか。

 ということで、ついにあるパン屋のイートインコーナーで注文。

 パックマンが生クリームを咥えたようなコミカルなフォルム。そしてこの圧倒的な生クリーム感がやはり期待をそそる。

 食べてみる。

 プリオッシュ生地のパンの柔らかさとクリームは確かに合う。

 ただ、シンプルといえばシンプルなので、パン+生クリームという組合せ、および、ほぼ生クリーム、この2つの状態しか口内に存在しない。そして、後者の方が当然のことながら圧倒的に多いのだ。

 結論として、甘党とはいえアラフィフの身には生クリーム連続状態はきつい。やはり乳脂肪分に少し体が悪い方向に反応してしまう。

 要するに胸焼けなのである。

 美味いは美味いのだが、この後半の胸焼けを経験してもう一度食べたいか?と自問自答しているが、今のところYesという答えは出てこない。

 とはいえ1つだけのケースで即断もできないので、別の店でもトライ。

 ここはクリームに拘りがあり、生クリームとシャインマスカットクリームが入っている。こちらはクリームに味の変化もあり、シャインマスカットの爽やかさがあり、なかなかいける。しかしながら、後半の脂質胸焼けはやはり襲ってくるのであった。

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製造装置メーカやプラントメーカにとって複雑なサプライチェーンを重ね合わされた市場の”潜在ニーズ”を探るために:B2(B ^X )B2C=B2B2B2…B2Cのマーケティングとは

 先日読んだ、稲田将人「経営参謀」(日経ビジネス文庫)は、アパレル市場を舞台として経営戦略をテーマにした小説であるが、そこにおいて製品戦略のためには「マーケティング」が主な手法となることが描かれる。

 アパレルすなわちB2C市場なので、消費者の行動をヒアリングや面談などで聴取し、巧みな質問と分析によって明らかにしていく。これを感心して読んでいた。いわゆる「マーケットイン」の考え方であると理解している。

 ただ、最近のB2BあるいはB2Pと呼ばれているビジネスモデルではどうなのか?という疑問が湧いた。

 最終的には消費者(コンシューマのC)にたどり着くにせよ、その前段にある材料メーカや製造装置メーカなどサプライチェーン上流側にあるメーカにとって、同様にマーケティングをしようとした場合、非常に困難を感じる実感がある。

 特に製造装置メーカなどは、個別受注型モデルを選択することが多く、その結果として中期計画などが個々の顧客の”点”だけの繋がりになってしまう。逐次、中期計画の検証・修正をしようとしても毎年看板を掛け替えるだけになり、要するに行き当たりばったりの計画になってしまうことが多いように思える。

 身も蓋もない言い方をしてしまうと、”御用聞き”にとっては、中期計画も戦略も必要ないし、存在しないのである。

 だが、それでも会社の規模によっては経営企画部門があり、彼らは毎年一生懸命、中期計画や戦略を作ることになる。しかしこれは上記のように毎年無意味な徒労に終わることが多いようだ。

 確かに戦略自体も1次仮説であり、これを小さい範囲でPDCAを回して精度を上げれば良い。「経営参謀」に正しく書かれているように、それは理解している。

 だが、サプライチェーンが多重的に重なり、最終的な「ニーズ」や「進むべき方向」のコアがボカされた結果、目の前には”伝言ゲーム”で作られた、謎に広いニーズだけがある(以下の図式)。

 こんなものを前にして進むべき方向を作れ、と言われても厳しいのも事実なのである

 芯を食った「進むべき方向」など出てくるわけがないのである。

 ちなみに半導体業界などは巨大市場であるが故に、そんなことはなく、デバイスメーカと装置メーカが業界団体を作り、ロードマップそして規格を作ってきた。こうしたイニシアチブがある業界はむしろ例外である。

 こんな状況の中で、妥協的に考えて、経営企画的に行動すると、どうなるか。

 いわゆる「プロダクトアウト」になってしまうのである。

 強い自社技術を特定して、それを生かす市場の方を探しにいくという手法である。

 だが、これは経験上、上手く行かないことが多い。確かに上記のような目の前にある「市場」が広く、薄く、ぼんやりしている場合、唯一ロジカルに解を出したように見せられる方式である。経営層にも一応「納得」を感じさせられる、経営企画部門のテクニックとも言える。実際上手くいかなかった場合、技術力が足りなかったと技術サイドに責任転嫁できる狡い手法でもあるのだ。

 だが、B2Bにおいて「プロダクトアウト」方式は、それ自体は否定しないが、まぐれのホームラン狙いのような感じであることも確かである。そんなロジカルに解が出れば苦労しないのだ。

 実際に、その業界で勝っている(勝った)企業は、実は「プロダクトアウト」ではなく、「マーケットイン」で勝利しているように思う。やはりB2Cと同様に誰も見つけていない”真空市場”があり、”市場を作り出した”はずなのだ。そして、それは今この場でも「ある」はずなのである。

 しかし、多重に連鎖しているサプライチェーンが、B2Cでは可能だった市場分析の手法ができない、あるいは、そもそもシステムに存在する時定数の大きさ(遅れ要素)が、単純なマーケティング手法を適用できないという課題があるのである。

 ではそのB2B、あるいは、多層的B2B(B2(B ^X )B2C)において、市場の「潜在ニーズ」を特定するにはどうしたら良いのか。

 その答えはまだ私にはない。今もうんうん唸っているのである。

 

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これは”ホテルあるある”なのか?クリーニング代370円を730円で請求されて、疑問を呈したら逆にフロントに食い下がられた話

 色々あって、最近ビジネスホテルに長期滞在していることが多くなった。

 QOLにとって問題なのは、やはり洗濯である。下着だけでなく、Yシャツなども大量に持っていく訳にもいかない。

 下着、靴下、ハンカチなどは、ホテルの部屋で洗濯し、部屋で干す。しかしアイロンが必要なYシャツはそうも行かないのでホテルのランドリーサービスに出す。

 朝出かける時にランドリーバッグに入れてフロントにお願いすると、夕方には特急でYシャツができている。割高ではあるが、これは納得である。ちなみに価格は370円である。

 実際地元で時間をかけていいなら100円台なので、割高だが当日特急ならばやむなしである。

 と思っていた。

 だが事態はなかなか更に上を行くもので、本日あった出来事はこうである。

 フロント「(Yシャツ1枚を返して、電卓を見せながら)730円です」

 ぼく「えっ」

 フロント「730円です」

 ぼく「(何かの間違いかもしれない)えーっと、たぶんその価格って違うんじゃないすかね」

 フロント「いえ、お客様、こちらが決めた料金でやらせていただいていますので」

 ぼく「(そうなんだ、でも昨日までは370円だったけど)でも、違うような」

 フロント「いえ、そうではなくて、お客様が出していただいた時点で価格はこちらで決めさせていただくので」

 ぼく「(そうなんだ、でも流石におかしいような気がする)いや、おかしいですよ」

 フロント「(向こうもちょっとキレて)伝票を見ていただければわかります通り(伝票を出す)」

 そして、そこには370円と書かれているのであった。

 おそらく超好意的に考えて、伝票を客側に見せているので、読み間違っていたのではないかと思うが。あるあるなのか?

 フロントからも謝罪されたので、まあ問題はなかった。私の財布も損はしていないので満足とすべきなのであろう。

 だが、この金額でやりとりしたこの「ラリー」のもやもやは解消されてはいない。向こうは私を「ホテルのクリーニング代は高いんですよ、発注後にそんなことを言われるのはおかしいですよ」と諌める、私は「いや、そんな議論はしてないんだけど」というすれ違い。これは、一体なんだったのであろうか。正直そこそこの格式あるホテルなのに。そんなに値切るクレーマーが多いのであろうか。

 そんなこんなで、今部屋で一人、ホテルにある「総支配人宛」の封筒を前に悩んでいるのである。フロントの実名もわかるし(思わず名札をチェックした)、どうしようかと。

 ここは関西であり、私も関西人であれば「おんどれ、支配人を呼んでこい!口だけではなく、謝罪と誠意を形でしめさんかい!何が謝罪になるのか己で考えんかい!」と交渉する流儀がデフォルトなのであろうが(スーパー偏見)、私にはそんな文化もないので、非常に悩ましいのである。

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【近況】異動になってしまった

 最近、身の回りに変化があった。

 具体的には「異動」である。異動自体はこれまでも何度もあって、最近では3年前だが、今回は比較的大きな環境変化を伴うものであった。

 業務内容は広義の「技術企画」と変わっていないのであるが、その対象が変わったという感じである。

 その結果、勤務地が変更になり、周囲の環境も変更になった。

 新しい環境、新しい人間関係、業務システム、全てを再構築である。

 おまけにコロナ禍でコミュニケーション手段の制限もある。

 その一方で、新しい職場では、よりフロントラインに近くなった。さらにより困難な環境になった。解決すべき課題は山積みで、しかも待ったなしの状況である。

 例えると、昭和20年8月前半くらいの日本のような状況である。もはや無理ゲーのような気もするが、「地には平和を」みたいなifもあるので。

 まあ今まで別の立場で、偉そうに遠くからアレコレ理想論を言ってたら「OKY」(=お前が・来て・やってみろ)になってしまったというべきなので、嘆いていても仕方がない側面もある。自分の蒔いた種というか、自業自得というか。

 ただ、自分の信条として、まっさらの雪に最初に足跡をつけるような新規環境、未踏の状況は嫌いではない(むしろそっちの方が好き)。さらに、苦しい環境の方が、最初からマイナスのスタートなので気楽と言えば気楽である(強がり含む)。

 経験は自分では選べない、というが、得難い経験をしていると思っている。だが、その結果として傷だらけにもなっているという昨今である。

 個人的にも厳しい状況ではあるが、製造業の立場からすると、マクロ的にみてバブル崩壊から次第に続いてきた「日本のものづくり」が直面する課題、すなわち”日本でものづくりをする意味があるのか?”という問いへの最終ジャッジポイント、瀬戸際だといえるのかもしれない。

 正攻法なものづくりは既に「過剰品質」のレッテルを貼られ、DXだ、UXだ、IoTだというバズワードだけはあるが、結局儲かっているのは”ツルハシビジネス”だけというこの状況(異論はあるはずだが、いまだに納得はいかない)。

 ゆでカエルになった日本の製造業にとって、この時点では”刀折れ矢尽き果て”という内部状況と思う。反転攻勢というのは簡単だが、そもそもその体力すら残っているのか?という絶望感すらある。

 だが、最後の正念場と思って、残り少ない知恵を絞ってやっていくしかないのである。

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緊急事態宣言の繰り返しは「茹でガエル」との戦いの様相になってきた:互酬性と囚人のジレンマ

 いや〜まいった。

 前回の2回目の緊急事態宣言があり、テレワークだなんだとへとへとになり、解除でまたドタバタした挙句に、そして今回の3回目。

 ただし、防疫観点で感染者増加数の勾配を見ると、確かにそのトリガーがかかっているのは非常に理解できる。

 その反面、結局人間社会というのは多数の個人の集合であって、1対1の関係における命令と実行の関係とは、その「時定数」が異なる。

 だからこそ、”自粛”の効果は、数日遅れてやってくるし、”コロナ疲れ”の効果も、同様に数日遅れてやってくる。この時定数に対して、ニュースなどが報じる感染者数の速報値の情報伝達自体はリアルタイム性を持っている。時定数を持った”遅れてきた過去の行為に対する結果”に対する速報性だけがあるという状況になっているのである。

 文化人類学的にいう”互酬性”というか、結局人間心理として、我慢したならその結果が報酬として得られれば頑張れる。さらに報酬とはリアルタイムに欲しい。後から褒められても、忘れてしまうので効果は薄れるのである。そして、その報酬が遅れてやってくれば来るほど、その耐えた我慢に対して個人レベルでは納得がいかなくなる。やはり無形有形に報酬を返してほしい。でも、報酬を返す当事者も誰かわからない。みんな当事者で、誰から報酬を貰えば良いかわからない。でも、誰もが報酬を貰いたい立場と思っている。ただ過去の結果に対する悪い情報だけが問われるという負のループ。

 このあたりが、今の社会的ジレンマになっているように思える。

 その結果として、個人の行動にも”ブレ”が生じるわけで、どうして良いのかわからない、あるいは、ストレスをムダに貯めることになるのであろう。

 おそらく社会的に思いを一つにできれば良いのだが、今のままだとまさに「茹でガエル」の世界で、単純な我慢比べというか、囚人のジレンマ的に「自分だけ良ければ良い」戦略側に利得の雪崩を打つ方向になりそうで、少々不安である。

 そんなことを考えつつ、私も今まさに色々環境が変わりつつあり、非常に悩ましい状況にあるのである。 

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相手の注文に正確に応えることの難しさ:上司に「ラーメン」を注文されて「寿司」を提供し続ける部下

 企画系の業務をしていて、噛み合っていないやりとりを良く見かける。

 「戦略シナリオ」案や、もう少し単純に「改善」案を、上司が部下に求めた場合に発生する収束しないキャッチボールのことである。

 回答に納得できない上司は、執拗に意図と違うことを説明し、提案を受領しない。

 部下は、否定された案を、上司の意向を考え、何度も修正・変更して提案する。
 
 お互い意図が伝わっていないのか、このキャッチボールが繰り返され、自然に”千本ノック”、あるいはちょっとした”マウントパンチ”の様相になってくる。要するに公開リンチのようになってしまうこともある。

 上司からすると”指導”なのだが、何度言っても一向に修正されない部下の態度にイラつきを覚え言葉も強くなる。部下にしてみると、出口のないただの言葉の暴力を受け続けるだけの単なるパワハラ的な印象を与えることになる。

 こうしてお互いが噛み合っていないまま、互いがひたすら不幸になっていくような風景が見られることがある。

 この「噛み合わなさ」は何なのか。もう少し掘り下げてみたい。

 第三者から見ると、以下のような単純化したやりとりになっているように思える。

 上司「ラーメンを作って欲しい。具はこうで、スープはこうで」
 部下「了解しました。作業にかかります」
 部下「できました。どうですか?」
 上司「いや、これ寿司でしょ。私はラーメンを注文したんだから」
 部下「・・・すいません。ちょっと誤解があったようです」
 部下「できました。ラーメンです」
 上司「いや、だから、これ寿司でしょ」
 部下「・・・・」

 この構図では、実際に第三者がみて、部下が作ったのが寿司なのかラーメンなのかは問題の本質ではなく、お互いにある料理の実体に対する認識が異なっており、その違うことを理解しないまま一応会話だけは進んでしまっている。

 では、最初にお互いにラーメンと称するものはこれだ、と、前提条件と定義をきちんと合意した上で業務を進めれば、この問題は解決するのであろうか。

 実際の現場では更に、もう一段複雑なすれ違いも起こっている。

 それは、上司が求めているのは「結論を導き出したロジック(論理)」であるにもかかわらず、部下が提出するのは「上司の心の中にある結論」となった場合のすれ違いである。

 これは更に根が深く、上記の事例のような前提条件を定義すれば解決できる問題ではなく、業務に対する基本的姿勢の違いに相当する本質的な問題である。

 上司の頭の中には想定された結論は確かに存在する。

 だが、それを部下に当てて欲しい訳ではない。

 もう少し大胆にいうと、その”結論”は直感で導き出されたものかもしれない。自分の経験や勘で導き出されたものかもしれない。

 いわば帰納的でも演繹的でもなく、先験的かつ超越論的に導出されたものなのである。

 繰り返しになるが、その正解を部下に当てて欲しい訳ではなく、むしろその正しさの論理的検証をして欲しい、あるいはより論理的にリーズナブルな解があるならその指摘をした上で、乗り換えるかどうかを判断したい、というのがこの「注文」の本質なのである。

 むしろ結論を考えるのは自分であって、それは部下には求めていない。それを当ててもらっても、むしろ心理的には反感も生まれる。

 だが、地位などのバイアスがかかった部下は、上司の心の中にある「結論の正解」を当てようとしがちである。その結果、論理ではなく、相手の感情に支配されることになる。

 最終的には「上司の結論と私の結論が一致しているんだから、それ以上何が問題があるのか?」という怒りすら部下は覚える。結論当てゲームに既に正解しているのに、まだしつこくグチグチと言っている上司に不信感を覚えるのである。

 結局、上司は「論理」を注文しているのに、部下は「結論」を提供するという、先程と同様の噛み合っていない構図が現れている。

 ここで更にバイアスを生んでいるのは、特に部下のもつ「絶対的正しさへの過剰な欲求」であろう。

 誰しも上司の前で間違いたくはない。

 だが、正しさとは相対的なものであり、固定されたものではない、という認識をなかなか持ちにくいものだ。特に会社組織のような、政治的、権力的なバイアスが常にかかっている場合には尚更であろう。
 
 それでも論理に必要なのは「首尾一貫していること」「論理的に整合して矛盾のないこと」である。従って、その要件を満たしていれば、複数の解(結論)がありうるし、その解(結論)同士が対立することも許容される。

 そして論理自体は玉ねぎのような階層的構造になっており、更に上位の論理が下位の論理を包含して乗り越える構造になっている。下位の階層の論理は、上位の階層の論理によって優越される。

 論理を注文する人は、ある意味「論理に殉じる」覚悟を決めているのであって、より論理的に正しければ、自分の感情とは無関係にそちらに乗り換える(意見を変える)ことも躊躇なく行う用意があるのである。そのための判断材料が欲しいのだ。

 そして、論理的な正しさこそが、組織において他者を動かす根拠(の一つ)になりうる。より論理的に正しい、より上位階層の論理である方が、他者を動かす説得力になるのである。それが故に、より論理的に正しい結論を組織においては欲するのである。

 もちろん、それらが最終的に感情や政治の力によって全く異なる別の答えになる(いわゆる”神の声”)こともあるが、それはまた別次元の話である。この神の声が全てであれば、トップ以外はただのロボットで済んでしまう。

 その意味で、納品すべきは「論理」なのであるが、納品されるのが「結論」となってしまい、終わりないマウントポジションからのパンチ連打の光景になるのは、見ていて辛いものがある。

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緊急事態宣言解除直後から、早々にテレワークをギブアップして自ら出社を希望する層が出てきている

 2021年1月に再び発令された「緊急事態宣言」は3月21日に解除された。私もテレワークであまり会社に行くことはなかったが、少しずつ戻る方向になりつつある。

 今回の緊急事態宣言に伴うテレワーク推進あるいは行動の抑制に関して、前回のような緊張感が少し薄れているようだ。経済活動との相反も指摘されることも相まって、実感としても前回より個人に与える精神的影響が大きかったように思える。

 具体的には、早々に「テレワークだと仕事が回らない、出社したい」という声が多く出てきたことである。

 前回よりもインフラや業務ツールは充実しており、業務環境としてはよりテレワークしやすいにもかかわらずである。

 前回同様に「現場」がある部門から当然そうした声が上がるのは理解でき、こうした配慮はしているのであるが、今回は、「現場」がないはずの事務屋、管理屋から多くその声が上がってきたことが予想外であった。

 つまり本来調整や管理をする業務、つまり、テレワークにもっとも親和性のある(と思われていた)はずの部門の「ある階層」から、早々に「このままでは仕事の効率が極めて落ちますので、出社したいです」というあからさまなギブアップ宣言が相次いだのである。

 そしてこの声は、むしろデジタル化に対応できないと思われる高齢の窓際世代ではなく、実務を担う中堅層から出ているのが、更に不審であった。

 実際、皮肉なことに、窓際というか”飾り”の高齢世代は、実は意外にもテレワークを歓迎しているのである。会社にいても用事も多くないし、周囲もかまってくれないので、むしろプライベートと近い環境の方が良いというのが本音なのであろう。これはある意味Win-Winな姿であろう。

 だが、こうした歓迎される世代と裏腹に、実際に調整作業や企画管理する部門、テレビ会議などで十分それが果たせそうと思われていた世代が、実は「フェイスツーフェイスで話をしないと、仕事が進みません。業務効率が落ちます」という状況に陥っているのが印象的であった。

 確かに、権力があれば別だが、そうではない場合、他者への説得や交渉では、ある種の「迫力」「熱量」がないとダメで、テレビ会議ではやはり「情熱」や「気合」などが表現することに限界がある、ということなのであろう。やはり、そうしたアナログな要素が現実の仕事を回していたということなのであろうか。

 しかし、これまでの「常識」からすると本来「現場」とはみなされていなかった事務屋の一部に、フィジカルな世界の必要性がわかったことはダメージを受けつつも勉強にはなった。

 今でもほんまかいな、とは思っているが。

 まあ、私自身はすでにかなり「窓」に近いので、「これからも基本テレワークでお願いします」と言われたばかりなのであるが・・・・。

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カエシのある釣り針が指に突き刺さった際の絶望感

 老父とハゼ釣りに行った際の、帰りのことである。

 「トイレに行ってくる」と言って出た老父を、車内で待っていた。少々遅めだったが、帰ってきた。しかし何故か元気がない。

 「・・・まいった」と言っている。そして右手を見せる。良くわからない。

 「俺に糸がついてるだろ」という。目をこらすと確かに釣り糸が出ている。テナガエビ仕掛けなのでハリスが細くて良くわからないのである。

 そして苦悶の表情で「刺さって、取れないんだよ」と。良く見ると指に針が刺さっている。ハリスはそこから繋がっているのであった。

 聞くと、ハゼ釣りの際に使ったテナガエビ仕掛けの予備ハリスを不用意にポケットにしまい、トイレの際にハンカチを出そうと手を入れた瞬間に刺さってしまったようなのだ。

 その際にグイっと入れてしまった模様で、針の「カエシ」が肉に潜り込んでしまい、抜けなくなっているのである。

 テナガエビ用の極細針でありながら、なかなかどうしてすごく、押しても引いてもびくともしないのである。

 そして動かすたびに本人が激痛が走るらしく、脂汗をかいて唸っているのである。笑ってしまいそうだが、確かに恐ろしい悲劇である。

 苦闘すること10分。埒が明かないと見たのか、老父が覚悟を決めた表情で「おい、自分でやったら痛みで力が緩むから、お前一気に抜いてくれよ」と言うのである。とはいえ、こちらも魚の口から針を抜くのではなく、肉親の肉を引きちぎるわけにもいかず、少々戸惑う。ただ、そこそこ覚悟がいる。

 一応頑張ってみたが、やはり目の前で歯を食いしばっている親の顔を見ると非常になりきれない自分がいたのである。また、テナガエビ針も極小なので力が入りにくく、間違って針を折ってしまったらと躊躇する心理もあったのだ。

 この場合の対処方法は釣り人として実は知っていた。

 それは、”あえて逆方向に針を動かし、針の先端を外へ貫通させる。そして先端のカエシをペンチで潰す”というバイオレンスなものである。だが、これも実際やろうとすると難しい。

 テナガエビサイズなので、今回はまだあまり深刻ではない(?)が、かつてオカッパリでルアーをやっていた際に、開始早々でメタルジグの針が手の甲に刺さった人を見た時は、それはかわいそうであった。

 もはや戦闘不能で、ただただ唸り続けているのである。

 そして同行の釣り人は同情するものの自分の釣りを優先させたいので、自己責任なのか刺さった当人のみ放置されている光景。この絶望感。結局戦線離脱して、病院へ行ったはずだ。

 今回も同様で、ハリの大きさは相違するものの、痛みで身動き取れない状況なので、やはり大騒ぎである。病院に行くべきか検討を始め、まずは消毒用のマキロンを購入するため薬局へ移動。

 そして消毒液で少し元気が出たのか、再度気合いとともに老父が針を弄ると、「取れた」のである。

 だが、針が小さすぎて、全部摘出できたのかが確認できていない。最後は家で虫眼鏡で、摘出した針が原型をとどめていることを確認し、無事終了となった。

 「ハゼの気持ちがわかったよ・・・」と言うのが老父の感想であった。

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毎年妻の実家から「洋梨」が送られてくるのには、ひょっとして何か深い意味があるのだろうか?

 妻の実家から新潟の洋梨「ル レクチェ」が送られてきた。ありがたい。

 この洋梨は、甘さといい、柔らかい食感といい、濃厚芳醇でまさに絶品。初めて食べた時には感動すら覚えた。

 高価な梨でもあり毎年年末の楽しみにしているのである。最初に贈ってもらった際のこちらの感動を理解してくれているのか、毎年贈ってくれる。ありがたい。もう10年以上贈ってもらっているのである。

 ただ、先日会社の人との雑談で、こんなことがあった。

 私「昔会社で長期入院した人のお見舞いに、ブラックユーモアのつもりで”洋梨”(用無し)と”くず餅”(クズ)を送ったらめちゃくちゃ怒られてさぁ」

 同僚「そりゃそうですよ。長期離脱で不安なところにそんなものを持ってこられたら(笑)」

 その際にハタと気付いたのだが、妻の実家から私に対して「洋梨」=用無しを毎年送ってくるって、ひょっとして違うメッセージも込められているのであろうか?考えすぎか。違うよね。

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多摩地方、雪積もってきた。明日出勤なんだけど、早朝の路面凍結が嫌な予感・・・

 テレワークだと、全く外の状況がわからない。

 なんか外が騒がしいな、と思ってみたら、なんとそこそこの雪が。

 まあ在宅ワークだから今日時点では特に問題はないのだが、明日は久々の出勤予定日になっており、明日の朝に路面凍結が当然の如く予想されて、非常に不安なのである。

 昨年は確か早朝に転んで、手のひらが血塗れになるというアクシデントもあった。その度に雪道対応のブーツとかを検索するものの、結局関東だと買うタイミングを逸し続けるので、そうした雪道対応装備は、ない(偉そうに)。

 今回はどうなるか、非常に不安なのである。

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