川原泉も好きだった少女マンガ家である。
学生時代に、古本屋で『美貌の果実』を偶然手にとり、その過剰な文字量、独特のリズム、そして若干の屈折に驚いた。
メインキャラの名前が”日本農園の安楽史郎”……物凄い言語センス。いや、これマジで凄いんですよ、この攻め具合。陳腐化せず、未だにギャグとして成立している。川原先生は、この作品ではその日本語能力を余す所なく発揮している。
……に、日本農園って(25年振りの笑い)
少女マンガでこんなストーリーテリングができるのかと認識が改まったのを未だに衝撃として覚えている。
そして、過去の作品を揃えていき(「食欲魔人」シリーズなど)、また「花とゆめ」で同時並行で連載、出版されていた『笑う大天使』シリーズも追いかけ、リアルタイムで感動した。
『笑う大天使』の「夢だっていいじゃない」が1988年、今から29年前だ。あの話は良かった。
・・・・・もう、そんなになるの?
川原先生に関しては、その後も追いかけ続けている。先生が遅筆のおかげで〔?〕、なんだかんだでフォローできてしまうのである。
私の認識では、『笑う大天使』の後の『メイプル戦記』の前後で少し方向性が変わってきたと思われる。
今までは男性にも訴求力のあった川原先生の超絶ストーリーテリングに、”振り落とされそうになった”のである。
なんか違和感を感じ始めたのである。
その後『ブレーメンⅡ』は出るたびに購入して読んだが、ダメだった。
特に絵柄が。
『ブレーメンⅡ』の絵は技術的には非常にうまい。登場人物のほとんどを占める動物の描写なんか、これまでの川原先生の技術から一段上がっている。
しかし、そこに我々としては逆に感情移入できなくなっているのであった。私自身がオッさんになって少女マンガを読む感性が鈍磨してきているのも大きな原因の1つだろうとは思う。
ただ、言わせていただけると、絵が硬質になっているのが気になるのである。
昔の川原先生の絵は、例えるなら”サインペンでえいやっと描いたマル”を”これが顔でいいや”とマンガにしていた印象を持っている(完全な私見である)。
ところが『ブレーメンⅡ』以降の絵には、”コンパスで描いたきちっとしたマル、顔は少女マンガの技法に則って影を入れたり”というような教条主義が見え隠れするのである(完全な私見である)。
川原先生の持ち味とは、なんちゃってな感じの自由なお気楽なゆるゆる絵から、とんでもない人生の真理が飛び出てくるという点にある。そこに大きなギャップがあり、読者である我々に大きな自由を感じさせてくれたのだ(少なくとも昔の私はそうだった)。
ところが絵が硬質になり、いわば”絵とはかくあるべし”という教条主義が顕在化して来るにつれて、豊穣性を持つ物語自体すらも絵柄に引きずられ硬質化して”枯れて”しまい、そうしたギャップは見えなくなってしまう。
非常に惜しいと思う。
最近の作品である『レナード現象には理由がある』『コメットさんにも華がある』は、物語的には久々に昔の川原先生の路線に戻ってきた気がする。
しかし、やはり絵には硬質さが残っており、その教条主義が昔からのオッさん読者としては何より気になるところである。