【琵琶湖畔の道の駅巡り⑤】「道の駅 浅井三姉妹の里」で、ジャンクな雰囲気の激ウマ「サラダパン」(つるやパン)

 北近江の戦国大名、織田信長と敵対して滅ぼされた浅井長政の三姉妹(長女は豊臣秀吉の側室、茶々)の銅像がある「道の駅 浅井三姉妹の里」(長浜市)にやってきた。

 やはり琵琶湖の幸が大量にある。

 ここで購入したのは「サラダパン」。山盛りであった。単なるコッペパンのようにも見えるが、これはタクアン+マヨネーズが挟まれているご当地グルメなのである。長浜市の「つるやパン」が発明したソウルフードであるが、特に関東ではあまり知られていない。

 早速1つ食べてみた。マヨネーズとタクアンがパンとあい、ハイボールのつまみにもなる。なかなかジャンクな感じで、気に入ったのであった。

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【琵琶湖畔の道の駅巡り④】「道の駅伊吹の里 旬彩の森」で”ねばり芋”と日本蕎麦

 以前も琵琶湖畔の道の駅巡りをしてみたが、今回別の機会に再度「道の駅」を巡ってみた。”湖畔”とタイトルにあるが、湖畔からは離れている場所もあるがご容赦いただきたい。

 早速向かったのは伊吹山近くの「道の駅伊吹の里 旬彩の森」。もはや山あいの田舎っぽさが漂う風景である。

 道の駅では「ねばり芋」を購入してみた。

 そして道の駅の隣にある日本蕎麦屋さん「伊吹野そば」に。ここは人気店のようで行列もできているし、さらに本格的なのかオーダーから出てくるリードタイムもそこそこある。11時の開店直後ですぐ入れたが次々と行列が形成されていく。

 「日本そば発祥の地」と謳っており、本格派の匂いが漂う。ざるそば800円を注文。

 つゆが非常に甘めで特徴的。蕎麦の香りもよく、非常に旨い。これは人気店になるはずである。

 【琵琶湖畔の道の駅めぐり③】「マキノ追坂峠」(高島市)「しんあさひ風車村」(高島市)「妹子の郷」(大津市)で、”バタナツスープ”・”干し柿”・”渋皮栗甘露煮”・”しじみ”をゲット

 【琵琶湖畔の道の駅めぐり②】「塩津海道あぢかまの里」(長浜市)で、川魚のお惣菜を発見!ー”コイの天ぷら”をゲット

 【琵琶湖畔の道の駅めぐり①】「近江母の郷」(米原市)と「湖北みずどりステーション」(長浜市)で”ビワマス丼”・”えび豆”・”小鮎の天ぷら”をいただき、”赤こんにゃく”と”近江米バームクーヘン”をゲット

 道の駅草津「グリーンプラザからすま」で「近江米おにぎり」、川魚(鮎、ワカサギ)、「あおばなソフトクリーム」をゲット

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2023年スタート!変化に無意識に抵抗する人々を解放することが最後まで残る課題っぽい

 2023年も始まった。昨年大晦日にほとんど問題意識は書いてしまったが、「組織の中で新しいことをゼロから開始する」ということは非常に難しい。

 確かに理想的には、トップが意思決定し、そこに向けて下部組織にその実行を落とす。全体最適というポリシーの中で、各部門にとっても何も異論はないはずである。個別最適よりも全体最適の方が良いし、全体の方針に個々が従う、というのは組織論の大原則であって、誰も反対のしようがないド正論であるからだ。

 では、トップの一声で、組織内の個々の場面で、シームレスかつスムーズに適用されるものなのか?と問われた場合、現実的には「全くそんなことはない」のである。水飴の中で泳ぐような巨大な粘性抵抗があるのだ。

 人間が持つ無意識的な「現状維持バイアス」=変化に対する抵抗力というものは、非常に厄介なものである。口では「そうそう、君のいう通り」と言っても、実際にとる行動は全く異なり、なおかつ実行している本人もその矛盾に気づいていない、ということすら多々ある。

 皆が全体の方針に従うことで、調和のある形で進むのが理想であるし、美しい。言語として表現するだけであれば、単純であり、むしろ論理的な正しさを用いて全て記述できてしまう。

 そして実際にはそのように運ばない。

 いざ実行という局面になると、その動的な場面場面における複雑な「計算(打算)」が働き、やはり基本的には「様子見戦略」が最も個々の行動決定で最適になるようなのだ。つまり「当初は何もしない」そして「動きを見て後発で追従」そして「多数派が形成されたら全力で走る」という行動をとるものが多くなっていくのである。

 そこに加えて、人間としての「感情」の問題も考慮されるので、非常に厄介なのである。

 昨日の記事で書いたように、攻撃力だけがあったとしても、組織力が伴っていない場合、やはり孤立し消耗して結果としては敗北に終わる。兵站線を作るためには団体戦に移行しなくてはいけない。だが、団体戦に移行するためには、上記のような、組織論において単純ではない問題を孕むのである。

 とはいえ、この問題の解決は非常に難しい。おそらく汎用的な方法論もないであろう。

 日本電産の永守会長が、昨年の後継者問題のドタバタで「親分子分」という言い方をして世間ではアナクロだと批判されているが、やはりこの問題を最初に突破する手段としては「自分のいうことを基本的に無条件に信奉する子分」を作るという方法論が効果的だとは思う。そして、それは全くもって現代的でないことも事実である。

 現代組織の中で親分子分関係を作ることは非常に難しい(反社は除く)。かつて親分が子分にその忠誠と引き換えに提供できるとしていた「価値」も、今やコンプライアンスにほとんど引っかかってしまう。

 従ってこの「フォロワーを作る」ということが非常に難しい。

 親分子分であれば”この人についていく”であるが、これは使えないので、個人が人ではなく”何か”についていくようにするしかないであろう。自らの意思と思考で”これについていく”と強く決断しなくてはいけない(あるいはさせなくてはならない)。

 そしてその決断には、上位からの誘導や圧力があってはいけないのである。なかなかの無理ゲーであるが、今年はこんなことを考えつつトライして、サバイバルしていこうと思っているのである。

 昨日の大晦日に読んだナダル「いい人でいる必要なんてない」。コロチキのYouTubeはチャンネル登録して時々見ており、ナダルのエピソードは結構知識はある。ナダルという芸人の人格の中には、人間としての成熟さとサイコパスが混在しており、共感できそうでできない、という不思議な人格なのだ。この本を読んでもやはりその印象は変わらず。ただ、現代のサラリーマンには「刺さる」部分は確かにありそうである。

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カオスな2022年も終了した…勝負はまだつかず

 激動の2022年も終わりつつある。肉体的にもハードだった。昨年から、職場環境が大きく変わり、”ゼロから1を作り出す”ために目まぐるしく動き続けた1年であった。

 全く新しい出会いもあったし、新たな発見もあった。生活において、クライアントとサーバというか、顧客(お金を出す側)と提供者(お金をもらう側)の複雑さを身をもって学んだ。

 これは単純に言うと、ビジネスを含めた日々の生活の中で「顧客」と「提供者」の関係は固定ではなく、立場によって変化する関係性も持っている、という至極当たり前のことをあらためてしみじみと理解したのである。

 要するにお金の流れ的に「顧客」サイドは常に強いわけであるが、別の側面からは「顧客」ではなく「提供者」になることもある。単純には、我々は時にはお客様ポジションになるし、時にはお客様にモノやサービスを提供するポジションになる、ということである。

 当たり前のことだが、実は大きな組織にいると、このことに気づかないことが多いのだ。

 例えば調達部門にいる限り、常に「顧客」である立場で仕事をし続けることになる。また営業部門にいる限り常に「提供者」であるポジションである。法人を一つの人格と捉えれば当然、モノを買う立場では「顧客」、製品を売る立場では「提供者」となり、場面によってその立場は変わるわけだが、これが団体組織の中にいるとあまり理解できなかったのだ。このことが身に染みて経験できた。

 確かに「後工程はお客様」というフレーズもある。自分は結局実感できていなかったのだな、という反省もある。

 スタートアップの経営者などからは何を今更、という印象だろうが、「経験」で理解することは重要であった。それと同時に「顧客」というものが絶対的ではなく、いわば価値を巡る交渉の上に築かれる変動的な関係だったということも理解できた。要するに「顧客」と「提供者」の関係は、必ずしも王様と奴隷のような絶対的関係ではない(そう考えがちだが)ということも理解できたのだ。

 自らを振り返ると、あまり人前にも出たくないし、見ず知らずの他人と関係を作るのは苦手である。また思考するのは比較的好きだが、情報を集めるのはあまり好きではない。こんな状態であるが、今年1年は必要に迫られて、新しい業界や領域の情報を集め、そうした関係者との人脈を作る必要に迫られた。加えて、いわゆるGive&Takeで言うと、こちらがGiveできるものがない状態であり、交渉において取引材料も少ない。武器もないのに敵の領土を占領してこい、と言われているようなものなのである。

 無課金状態でゲームクリアしなくてはいけないような無理ゲープレイ状態とも言えるが、それでもなんとか今年は生き残ることができた。

 さきにスタートアップという表現を使ったが、まさにスタートアップのような少人数組織がもつ優位性とは、俊敏に分析、開発、意思決定のPDCAサイクルを高速に回すことだと思う。やはり大組織ではこんなことは不可能なのである。それと引き換えに少人数組織では、やはりリソースとしての「人」の問題もある。人材流動が激しいというのも、やはりこうしたサバイバル環境に耐えうる「素質」のようなものがある人間しか、やっていけないという事情もあるのではないか。

 要するに、初期段階というのは、その問題意識が尖っているため味方が増えず団体戦になりにくい。これは生き残るための攻撃力の増強が難しいということである。頻繁に方針も転換しなくてはいけないし、そのためには身軽である必要もある(そもそも方針転換についてこれないメンバーも出てくるはず)。

 なので、初期段階というものはえてして1点突破型の手法になりやすい。繰り返しになるが、壁を破って何か新しい価値を創造するには、既存の状況を「突破」しなくてはいけない。その突破力を高めるためには、尖った問題意識を集中させることだけで”アリのひと穴”を開けるしか手段はない。しかし、これは攻撃が面的にならないのでリソースの活用において効率が悪いという問題を抱えているのだ。

 そこで、来年の目標は攻撃力を上げることである。そのためには自分以外の味方を増やさなくてはいけない。だが、そこには「取引」がある。有形無形の何かを取引することによって、味方も参加してくるのは当然のことである。何を取引すべきか。ここが悩ましいのである。

除夜の鐘 吾が身の奈落 より聞ゆ

山口誓子

  

 

 

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【うどん】大津市「びわ湖食堂 気まぐれ」で肉うどん

 所用があって、大津市にある滋賀県立県民交流センターなる「ピアザ淡水(おうみ)」へ。味のある京阪電車の石場駅からテクテク歩き、先に腹ごしらえで遅めの昼ごはんが食べられるところを物色。・・・この辺りオフィス街(かつ県庁所在地)なのに、あまり店がない。不思議だ。

 少し彷徨うが、見つかったのが、この「びわ湖食堂 気まぐれ」。ちょうどうどんの心境(?)だったので入店。

 肉うどんセット850円を注文。関西風の出汁にモチモチうどんがうまい。なんとなくオフィスの定食感があり、安心感のある味であった。

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【書評】ラズウェル細木『酒のほそ道』52巻 まさに全盛期の「りぼん」を彷彿させる”中年少女マンガ”に新たなキャラ投入!

 ラズウェル細木『酒のほそ道』52巻を読んだ。

 今回は「麗ちゃん」も登場して懐かしい。それはそれとして、やはり2話分だけ、例の中年を巡る謎の恋愛事情、しかもプラトニックという、まさに全盛期の「りぼん」を彷彿させる少女マンガ展開が、居酒屋でウンチクと共に繰り広げられている。

 そして今回は、松島さんをめぐり、若手男子を投入してきた。小篠誉くんである。完全に岩間フォロワーであり、酒のウンチクを無条件に尊敬するタイプの善人キャラである。その彼が、完全に松島さんにイっちゃってるのである。

 現状の構図としては、小篠くん(new)→松島さん→?岩間ーかすみちゃん、という構図になる。図式で書けば簡単な話で、要するに中年版「星の瞳のシルエット」ということか。しかし、居酒屋の煙の中でピュアな恋愛はなかなかオッサン世代にはきつい。老眼も進んでるし。

 2025年問題も控え、今後の日本は社会課題が山積であるし、個人レベルでも加齢により成人病や介護の問題も気になる。あまりこの問題を引っ張ることなく早期決着しないと、読者層もさすがに心臓への負担が大きくなるのではないか?(いや、ないか)。

 

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【うどん】琵琶湖線 瀬田駅「虹や」で「天ざるうどん」を食べ、そしてICカード非対応の帝産バスに乗る

 関西出張で琵琶湖線瀬田駅に降り立つ。ここは立命館大学、龍谷大学、滋賀医科大学などの大学に向かうアクセス(バス乗り場)があり、快速通過駅ながらも学生たちが結構いる。

 昼前で早めに昼食を済ませようと駅前を巡って、発見したのがこのうどん屋さん「虹や」である。なかなかのスタイリッシュな雰囲気とこだわりを感じる店構えである。

 せっかくなので「天ざるうどん」1,300円の大盛り(+200円)をいってみる。最近景気が悪いので、ここらで運気を変えたいのだ。

 予告通り15分程度のゆで時間を要し、やってきた。なかなかいい感じである。”完全手打ち”とのことでモチモチとした歯応えがいける。天ぷらも、エビ、ちくわ、野菜と豪華。満足である。

 その後瀬田駅から、今回の用事で乗ったバスは「帝産バス」。ここはなんと昔ながらのバスで、交通系ICカード未対応なのであった。これはこれで珍しく、レトロ感漂う雰囲気であった。

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和食麺処サガミでアフターコロナ方式の「わんこそば」にチャレンジ!

 かつてTV番組「水曜日のダウンダウン」で少し話題になった、謎の大食い「K.カズミ」という少々モヤモヤする件の舞台となった「和食麺処サガミ」。まあ、本題とは異なるが、「探偵!ナイトスクープ」であれば、上岡局長が半激怒するタイプの締めかたであった。

 以前は「ざるそば」を食べ、なかなか美味かった記憶がある。今回、たまたま空腹時の晩ごはん探索の帰り道で見つかり、入店してみた。

 そして、やはりあった「わんこそば」。ただし、アフターコロナ仕様であって、例の「はいはい、じゃんじゃん♪」というコール&お椀へ麺inのご担当は背後に不在で、卓上ボタンで店員をその都度呼ぶ方式である。要するに、「*皿ください」という、”しゃぶしゃぶ食べ放題”スタイルなのである。

 メニューにもズバリ「わんこそば」1,619円(税含まず)と書かれている。確かに、ざる蕎麦を頼むと、物足りなさも残っていたのも事実。これはこれで満足できるのでは、とチャレンジである。

 ファーストロットのセット。色々なおつまみ系もあり、薬味もある。あとは右上にある単位の「蕎麦」をひたすら食べるだけである。

 一人でひたすら食べる。背後にプレッシャーもない。静かである。最初は美味い。そして、残念ながら、あれほどの美味しさが、食べ続けると違う味覚に変化する時がやってくるのである(何故だろう)。

 結局20杯でギブアップ。うーん、どうなんだろう。多いのか少ないのか。

 ちなみに店頭には噂の掲示があった。これはしかも「ざるそば」の記録なので、わんこそばより1単位の量が多いはず。やはり尋常ではない記録である。

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【書評】谷川ニコ『私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!』22巻–文化祭の準備期間という最も楽しい時間で青春感が高まる

 谷川ニコ『私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!』22巻を読んだ。今回は文化祭がテーマで、本番ではなく、まさにその準備過程、一番楽しい時期である。

 黒木さんが監督をやり映画を撮影するという、まさにここ最近の求心力がモロに出ている状況である。そして各自の個性も際立ち、今回のエピソードは傑作揃いである。

 結局こうした「設定」に対して、多彩なキャラたちが受け入れ、目標を共有して進んでいく訳であり非常に「青春」である。まあ、とはいえ彼女たちもこのマンガのキャラなので、そういう意味ではその部分は従順なのはあたり前なのだが。

 うっちーの乱入シーン。オーディションで即落とされるというオチ(結局出そうだが)付きである。

 相変わらずの小宮山さんの変態性。

 今回意味深なのは、将来イメージで「シェアハウス」という概念が提示されたことである。これは私の邪推では、作者による読者に対する「今後の展開のリサーチ」のような気がする。確かにこのテーマとしては「美しい」し、時間進行型のこの物語としても長期化可能である。どうなるのであろうか。

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就活学生に向けた講演骨子の作成依頼に対するゴーストライト成果物を公開するーお題「学生時代の勉強は社会で役立つか?」

 先日、ある技術者から就活生(理系)向けに、「大学時代の勉強は、社会でに役立つか?」という講演をする必要があり、資料の骨子を作ってくれないかという依頼を受けた。

 正直なところ企画部門の仕事をしているとゴーストライト的な業務は結構ある。要するに会社や経営サイドの意思を自分に憑依させて(既に決定されている会社の意思を代表して)スピーチ原稿なりを作るということは良くあることなのだ。

 今回もそれに近いものの、業務ではないし特に憑依させるべき人格はいないので、軽い気持ちで、できるだけ汎用的に使えるものを作ることにした。

 休日の1時間ばかりで作成して納品したものが以下である。特に独占的排他的な権利は設定していないので、ここに公開する次第である。実際のところコピペを否定している文章なので、それはそれで再利用することも難しそうであるが。

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「大学時代の勉強は、社会で役立つか?」

結論を先に述べると「直接役立つことはない」でしょう。

稀に大学での研究テーマがそのまま配属された企業の研究テーマになるケースもありますが、それはあくまで特殊なケースです。

例えば学位を持っていてその専門性を企業とマッチングした方や、その企業と大学が産学連携などをしている場合にはそうしたケースがあるのですが、多く場合はそうではありません。

皆さんの多くは、就職後各部門に配属され、さまざまな業務を経験しながら、社会人としての長いキャリアを積んでいくことになります。当たり前のことですが社会人として仕事をして、その対価をもらう。そうした生活をこれから長い人生で続けて行かなくてはなりません。

いま、キャリアといいましたようにそれぞれ自分の道筋があるでしょう。最初は新人ですが次第に独り立ちし、キャリアを積み重ねて、今度はより上位な立場で組織を指揮する立場に変わっていく人もいるでしょうし、専門性を追求する人もいるでしょう。ある段階で全く異なる道を選ぶ方もいるでしょう。

各自同じ道筋ではなく、それぞれの皆さんの生き方、適性、企業の経営状況など内的外的要因によって変わってきます。全て同じような良いキャリアがあるわけではありません。100人いたら100人の社会人としてのキャリアがあり、自分自身のキャリアプランがあると思います。

さて、翻って社会人、企業において「仕事をする」ということは、これまでの学生生活と何か違いがあるのでしょうか?

そう考えてみると、一つ思うのは、社会人の生活では自らの「価値」を考えていく必要がある、ということです。学生生活の授業やゼミ、研究は、あくまで学問の世界です。そして皆さんはその学問を「学ぶ」立場でした。企業でキャリアを積むということには、「学ぶ」ということも当然含まれますが、大きな違いは「学びながら、価値を生み出さなければいけない」ということだと思います。

この「価値」とは直接的には「利益」という生々しい形で、要するに(比較的目先の目線で)「お金を生み出す」という側面を持っています。それはどういった意味があるのでしょうか?単純に皆さんのお給料を生み出す行為でしょうか?それだけではなく、企業活動において、価値を生み出さければ企業活動は存続できません。赤字を出せば法人税も納められず、社会に存在していながら、その社会に対して何ら価値を生み出さないことになってしまうのです。つまり、企業とは組織的に価値を生み出し続けなくてはならない存在だと言えます。そのために、価値を生み出す組織を作る、そのためにも新人を採用していくのです。そこで皆さんの世代もまた、企業に入っていくのです。

ここで「価値」ということを申し上げました。これは非常に漠然としています。では、それをどうやって作り出すのか、を考えてみましょう。

例えば、簡単なことで最近のロボットやAIを考えてみると良いでしょう。

ロボットやAIにより、人間の単純作業が奪われる、というディストピアめいた話題が最近ありますね。

ただ、これはロボットを開発し、製造したコストに対して現在作業している人間が生み出す価値を比較した結果、前者の方がより安くつく場合に「奪われる」ことになります。人件費よりロボットの方が安いし、より正確(かつ疲れない)だということを判断した結果ですね。

企業でもそうです。皆さん一人一人が、自分が業務によって付加価値を生み出すことを求められてきます。

仮にいつまでも付加価値を生み出せないとすると、それはお互い不幸なことになりますね。

で、そこで今回のテーマである「学生時代の勉強」を思い出してください。

大学で皆さんが学んだ学問には体系があり、原理から法則へと、普遍的な論理的構成になっていました。皆さんは学問の基礎を学び、それを研究テーマとしてまとめてきました。先人の知見を理解し、その上で仮説をつくり、検証してきたはずです。個々のその内容は様々ですが、そこには「論理的思考」があったと思います。

企業において業務をする際にも重要なことは、この「論理的思考」です。

学生の勉強が社会でどう活かせるか?と問われると、まさにこの「論理的思考」であるといえます。

「論理的思考」は企業活動の様々な場面で使われ、それをうまく使える人とそれをうまく使えない人には差が出ます。

「価値」を生み出すこと、の一面は、論理的な思考を使って課題に対するより良い答えを出す、ということとも言えます。

なぜか。

組織は一般的に団体戦です。つまり個人の力を組合せて大きな組織力として発現することが必要です。もちろん個人で組織に匹敵する成果を出す人もいますが、多くありませんし個人としても消耗します。

そこで、組織の中で個人と個人が交渉する、組織と個人が交渉する、組織と組織が交渉する、企業と企業が交渉する、企業と行政が交渉する、企業と消費者が交渉する、こうした広い意味での当事者間の「交渉」によって、個人や組織がコミュニケーションをとり、利害調整をした結果として組織としての合意となり、成果に繋がります。

その根底にあり他者や他組織を接着する役割が「論理的思考」です。

論理的に破綻している主張には人々は共感しません。

他人を、あるいは、組織を、あるいは、社会を動かすためには「論理」の筋道が通っていることが必要です。自分以外の他者を動かすためには、論理的整合が必須なのです。もちろん「権力」もありますが、それだけではない、という話です。

こうした首尾一貫した論理的に正しい思考、そしてそれを表現することが、これからの皆さんの社会的活動にとって重要になってきます。

そしてその基礎はすでに身についているでしょう。

ただし、蛇足として注意しておきますが、この論理的思考というのは決してコピペやパクリでは身につかないものです。

ただし、一見論理的思考のような一例をコピペして、その場をしのぐこともできてしまいます。

しかし、そのロジックの前提条件が変わったらどうするか?と問われた場合、論理で導出した場合には解答の修正ができますが、コピペで出した回答ではすぐに対応できないのです。

コピペ元を探して彷徨う人は企業の中で残念ながらたくさんいます。

前提条件が変わったら、その論理によって違ったストーリー、違った結論になります。そのストーリーをつくるのは自分の頭で考えないと無理です。決してコピペやパクリ(他人の受け売り)では小手先の対応で終わります。そうした「見掛け倒し」は、社会ではすぐにメッキが剥がれてしまいます。

どうか皆さんには、論理的思考をこれからも生かして社会人としてキャリアを積んで行って欲しいと思います。

その基礎は、皆さん各自がこれまでの大学での勉強で学んだエッセンスとして持っているはずです。

ぜひ、それを自分の本当のスキルとして磨き、血肉としてください。

そうすれば、きっと皆さんの社会生活も豊かに、価値あるものになるでしょう。

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