注意:若干のオカルト記載があります。
萩本欽一「ダメなときほど運はたまる」(廣済堂新書)を読んだ。本の装丁からして、一見ものわかりの良い本に見えるが、これに先立つ萩本欽一、斎藤明美「まだ運はあるか」(大和書房)も含め、ある種の「奇書」である。
お笑い本でもないし、自己啓発本でもない。強いて挙げると、ビジネスマンが読む人生相談的な要素(蛭子さんのゆるゆる人生相談と同様に)が一番近いということになるが、この本にはそうした日常の平穏さを吹き飛ばす”狂気”が含まれている。
女言葉に近いソフト極まりない語り口でありながら、一貫して形のない”運”について主張していく。”運の貯め方”はどうすれば良いか、と。
そして萩本は、本書の中で当たり前のように、この”運”を徹底的に実在するリアルなものだとして疑わず、自然に語っている。
“運”とは、単なる偶然の連続的結果についての人間側の解釈であるとする一般的な常識など全く顧みることはない。
むしろ、その”運”を積極的にコントロールする方法について、当たり前のように語る。
この著者の姿勢は、明らかに”我々の与り知らぬ世界の原理”=”運”の実在を信じ、そのメカニズムと制御方法を語るという、要するに「オカルト本」と同じスタンスなのである。
しかし、その一方でこの本には、単なるオカルト本と一線を画していることは、ここで明確に述べておくべきと思われる。
本書が単なるオカルト本の構造を超えている理由として、一線の芸人が、不確定かつカオスな挙動を示す大衆を含んだメディア=テレビの世界の最前線において徹底的に悩みぬいた結果、ほんとうに日常の先を見たのではないかと思わせるだけの実績と説得力があるからである。
我々が良く知る日常の世界の原理が、ある瞬間に一皮むかれ、その闇の中に混沌の蕊く異なる原理の世界が広がっているとしたら。
それを見た者は一般にオカルティズムに陥るか、狂気に陥るのであろう。
だが、逆説的ではあるがその「混沌の論理」=「世界のほんとうの原理」をこちらに還ってきて語ることのできる”生還者”が、ごく少ないながらも存在し、萩本はその一人ではなかろうかと思えるのである。
同様の感想を桜井章一や吉本隆明にも感じることがあり、みな慎重な語り口であり、日常言語を使いながらその僅かな齪酪や意味の逸脱の方法を用いて、我々の日常世界の前提を揺るがせることができる。
私自身は決してそこに辿りつくことはないであろうが、そうした日常を崩す僅かな空気の震えを感知できるようにはなりたいと思う。