パチスロ「ジャグラー」のGoGoランプで反応する肉体になってしまった

すでにパチスロからは足を洗った私であるが、北電子のパチスロ機「ジャグラー」シリーズは、とんでもない名機だと思う。

Aタイプの単純確率による、たかが1フラグ(ビッグとレギュラーを入れると2つ)のランプ点灯を、あれほどそそる演出にした戦略には脱帽である。

ありえないが、朝一でパチスロ屋に並び、わざわざGoGoジャグラーをゲットし、LEDでなかった控えめなランプ点灯で一喜一憂していた時期がある。単なる確率だと思うのだが、謎の”波”のようなものがあって、来た!ジャグ連!などという醜態を晒していた過去の自分を責めたい。

設定が高めだったこともあり、今でも人気を誇っている機種だ。

私が、勝負師ではなく、負師(まけし)だった時代である。とほほ。

この度、こんな携帯用バッテリーを入手した。

本体充電中は左にあるLEDランプが赤く、携帯への充電(バッテリーにとっては放電か)の時には青く光るのである。

ジャグラーのGoGo!ランプは脳内に刷り込まれているので、今でも、そそる。

ただし名刺サイズなので、スマホが20%→80%までしか充電できなかった。

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ベーシックインカムって?BI 砲のことじゃないの?

なるほど、だから噛み合わなかったのねと。今更ながら。

某掲示板でBIについて、長い時間、汚い言葉で応酬し合い、なおかつ相手と分かり合えない理由はそこだったのかと、先ほどようやく気づいた。

そういうことだったのか。

それなら、最終的に議論で負けそうになった末に、そこら中の参加者に、あんなに汚い言葉を捨て台詞気味に吐き散らして、レスを打ち切るんじゃなかった(←オイ)。

私としては、一貫して、かつての力道山なき後の日本プロレスを支えた黄金コンピ、ジャイアント馬場とアントニオ猪木のタッグチーム、略してBIについて熱く語っていたのだ。

レスの相手は、今にして思うと、どうやらベーシックインカムについて語っていたらしい。どうりて噛み合わないと思った。

で、でもさあ、普通BIと言えば、馬場、猪木でしょう。

・・・えっ、時代ってそんなスピードで流れてるの?いやいや、常識と敢えて言及しますが、BIってのは、ジャイアント馬場とアントニオ猪木のタッグチームでしょうが!このヤロー!

いや?違う?えっ、日本人なの?ちがう?、あぁ、わかった、パタゴニアの人?違う?ブラジル知ってる?コーヒー農園知ってる?移民も知っている?砲丸投げも?じゃあアントニオ猪木も知ってる⁉︎梶原一騎の「プロレス・スーパースター列伝」読んだことないの?

・・・え?そんな娯楽のことを語っていない?もっと切実な生活のことなの?

え〜おじさん、困っちゃう(「お父さんは心配症」の佐々木光太郎のコスプレで)

だめ?知らないの?

・・・これがジェネレーションギャップなのか。

まあ、よろしい。

とにかく馬場と猪木は凄かった。

これだけは言える。

そして、ベーシックインカムについては、今後勉強します(すいません)。

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【書評】もこっちのスクールカーストからの独立問題–『私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!』11巻

谷川ニコ『私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!』をコミックスで読んでいる。

今回、最新刊11巻を読んだ。

高校生活における”ぼっち”の話が胸打つ感じで、私のサイトテーマである、”単騎でサバイバル”にも通じる話として楽しみに読んでいる。

巻を重ねるごとに、主人公黒木さんや友人小宮山さんの変態性が出てきたと同時に、少々路線が変更されてきた気がする。

友人のいないコミュ障=”ぼっち”が、学校生活という強制されつつ不確定な人間関係の中で折り合いをつけるための結果として胸つまされるような本来のストーリーから、変化が生まれてきた。

登場人物が増え、エピソードも増え、人間関係が固定化されたことによる結果なのか、日常系なストーリーに変化しつつあるように思う。

最大の変化点は、主人公の黒木さんがスクールカーストの最下層にはおらず、むしろそこから独立した優位な位置にいる、ということを、著者が、明示的ではないにせよハッキリさせたことが大きいと思われる。

特に”顔文字(うっちー)”、ヤンキー(吉田さん)、隠れオタク(根元さん)などとのエピソードが強化された修学旅行(8巻)からそれが鮮明になってきた。

それにより、”ぼっち”のいじめ的要素が解体され、異なる側面を見せ出した。

主人公の黒木さんは、スクールカーストで独立的に価値を持つカードをいくつも持っている。

・モテる弟の存在

・同性愛(誤解)で相手に恐怖を与えられること

・空気読めないことで逆に相手に恐怖を与えられること

・オタク趣味が優位価値を持つ世界(注1)で、それをオープンにしていること

などのカードを持っている。決して、スクールカーストの下層にはおらず、むしろこれらの評価が確定した際には、最上位になりうる可能性を秘めている。

ただし、現段階ではあくまで黒木さん本人には明かされていない。黒木さんはあくまで自分は”イケてない”と思い続けている。

これは著者にとって想定している読者層からも、有効な戦略だと思う。

主人公自身には他者を凌駕する潜在的能力、魅力があり、主人公にだけは隠されているが、それ以外の(読者も含めた)周囲が皆知っている、というマンガのストーリーの基本構造と合致している。

このパターンを見つけ出した『ワタモテ』はもうしばらく続くと思われる。時間軸は緩やかに流れているので、高校卒業まではこの方向性で継続できるのではないか(余計なお世話だろうが)。

注1:もちろんこの現実世界が持つ価値基準とは異なることは言うまでもない。

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【書評】倉田喜弘『明治大正の民衆娯楽』ーメディアとしての芸能「講談」の隆盛と衰退の背景(追記あり;再販されました)

倉田喜弘『明治大正の民衆娯楽』(岩波新書)を読んだ。

明治、大正の様々な–既に廃れたものや、今なお形を変えて続いているものもある–芸能が解説されている。時代背景も含め、興味深く読んだ。

例えば「娘義太夫」という三味線の演奏で女性芸人が浄瑠璃を歌う芸能がある(ビートたけしの祖母が娘義太夫の演者だったことでも知られている)。

この娘義太夫は、今でいうアイドルそのもので、人気の出た女義太夫に当時の学生たちが”追っかけ”をするなどして社会問題になったという。

また川上音二郎が流行させたと言われている”オッペケペー節”は今でも音源が残っており、YouTubeでも聴くことができるが、まさしくラップである。

時代は繰り返す、ということで片付けるつもりはない。社会の風景は、その時代の産業および経済環境などによって当然異なっているであろうが、我々の感性の根幹はそれほど変化していないのではないか、ということを言いたいのである。

さて、気になったのはもう一つある。

「講談」という、現代でも残っている芸能がある。

講談は講談師と呼ばれる演者が、壇上で”清水次郎長伝”や”赤穂浪士”などの歴史ものを、わかりやすく読み上げる形式である。

明治時代に文明開化が起こり、講談が急激に伸びた。

この背景として、倉田の著書では、

・文明開化によって急激な情報量の増加と民衆の知識欲が起こった

・新聞が発売されはじめたが、当時の識字率は低く大衆には浸透しなかった

・講談師が今起こっているニュースを口頭で紹介することでそれに応えた

という時代背景があったとする。

つまり、当時の大衆のニーズに講談師はマッチしたのだ。

しかし、倉田の著書では、1875年に185人だった講談師は、1887年に429人でピークを迎え、そこから減少が始まる。これは、義務教育などの教化政策により、大衆の識字率が上がってきたこととリンクするとしている。

1887年には半数以上の割合でいた不就学児童が、1899年には28%にまで低下している。

それに伴って、講談師の必要性(人気)は薄れていくことになる。講談の寄席は少なくなり、新聞、小説にそのニーズを奪われていったのである。

わずか50年、人気のピーク的には20年程度であったことになる。世代で言えば1世代がギリギリだ。

つまり、講談師に憧れてその世界に入って、講談で飯を食い、贅沢に生活できた人間は少なかったであろう。

大衆の知識欲(ニーズ)によって生まれた講談というメディアの隆盛が、識字率の増加により、他のメディアに奪われていったことを示している。それも約50年で。

明治、大正ですらこうした早いサイクルでメディアや芸能が消費されていった(注1)。

翻って現代はどうか。

まさに現代も同様に、IT化の流れの中で様々なニーズが現れ、また消えていこうとしている。例えば、YouTuberやブロガー、SNS、キュレーションメディアなども、後にこうした民衆の歴史の中で振り返ることが行われるであろう。

講談師がそうであったように、芸能だけでなく、人間の生活基盤がそこに依存している場合、こうした隆盛と消費のサイクルを歴史的に見ておくことは、サバイバルの観点からも意味があると思う。

注1 昭和時代では、水木しげるが自伝で触れていた、紙芝居、貸本屋などが同様であろう。

2019.06追記:再販されたらしく、記事が出ていた。

 講談人気受け39年ぶり再版 岩波新書「明治大正の民衆娯楽」

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本日も「富士山盛り」、そして店側の逆襲

先週と同様、遅めの朝食を富士そばで。

先週と同様、富士山盛り(3玉)を注文すると、

 

店員「大盛り無料ですけど、どうします?」

なんと!店にはポスター、大盛り無料とある。

挑発か?

いや、でも、無理でしょ、普通。

4玉は無理でしょ。

ひょっとすると、大盛りが×2倍ジャンピングチャンスだった場合には、6玉になる可能性すら秘めているでしょ。これは無理だって。肉体的に。

ということで

「いや、いいっす」

という弱含み発言。

なんか敗北感があるのは何故だ。

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福島県の「酪王カフェオレ」をゲット

出張先で、福島県のソウルドリンクと言われている「酪王カフェオレ」をゲット。

牛乳は苦手だが、コーヒー牛乳は好きなのである。

生乳50%以上使用とあり、味は濃厚、かつ、しっかりとコーヒー感もあり、うまい。

なかなか後引く感じで、リピートしたくなり、関東で販売してないのか…と調べたら、やはり根強いファンがいるらしく、あっさり見つかった。

酪王カフェオレ販売目撃情報まとめ

上記サイトの情報によれば、確実にあるのは秋葉原駅か御徒町駅のホームのミルクスタンドの模様。どちらも残念ながら最近はあまり使用しない駅だ(つくばエキスプレスを使った出張が一時あったのだが最近ない)。

更にもう少し調べたら、酪王カフェオレアイスもあるらしい。これは更に入手が難しそう。

参考

2018.09 追記

  出張先で200mlと300mlを購入。安定のコクである。

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時代は繰り返す:SF作家のPR誌とアフィリエーター

 日本SF作家第一世代が世に出始めた頃-昭和40年代であろうか-企業が”PR誌”なる小冊子を発行するのがブームになった。

 要するに宣伝用の無料配布ミニコミ雑誌なのだが、そこに載せる小さめの記事として、企業にとっての明るい未来イメージをもった掌編が求められ、ちょうどショートショートが手法として開拓されていた若手SF作家の活躍の場になっていた。

 その頃若手だった小松左京や筒井康隆も、そんな注文を受けていた。しかしPR誌はその性格上、スポンサーの意向が強い場合が多く、あれはダメこれはダメ、この商品の未来をこう書けといった制約がキツく、作者たちはSFの持つ自由に反するとして悩んでいた時代がある。

 いつの時代も宣伝は必要で、作家やライターなどの文筆業者は、どうしてもそのビジネスの中に巻き込まれる運命にある。そこに宣伝費があり、ライターへの注文があるのだから、両者の思惑さえ合致すれば、何ら問題ない。

 ただ、そうした製品に対するスポンサーの意向は、SF小説の持つ発想の自由とは大きく相反する要素であったことは間違いなく、作家自身割り切れなさを吐露している回想を読んだことがある。

 初めから宣伝文と割り切っていれば、そんな心中の葛藤は起こらないのだろう。作家としての自己表現と、スポンサーの要求という他者の制約に、どう折り合いをつけるかという問題である。

 現代であると航空機や新幹線内にある雑誌のようなイメージであろうか。これらは、”旅”という商品を売ってい流ので、そうした生々しさは薄れている。

 むしろ類似しているケースとしては、ブロガーのブログ記事に、アフィリエイト記事を紛れ込ませてくることを多々見かける。

 アフィリエイターは間口からそれと分かるので良いのだが、日常系ブロガーの記事にアフィリ記事が混じると、ちょっと心配になる。

 アフィリについて否定するつもりは全くない。

 ブロガーの場合、その真理として、前述のようなSF作家がそうであったような内的葛藤ってないんだろうか、メンタル大丈夫なんだろうか、という心配である(余計なお世話だと思うが)。

 例えばブロガーが日常記事でノマドワークやフリーランスを礼賛しつつ、アフィリ記事で転職サイトを勧めてる場合、私は首尾一貫のしなさを感じてしまう。うまく、統合してる記事もあるけど、やっぱりどこかに著者の心理折り合いのついてなさ、苦しさが透けて見えてしまう(主観です)。

 やはり、論旨が明快で首尾一貫している記事は、意見はどうあれ素直に読める。しかし、著者自身のジレンマがそこに透けて見えていると、その苦しさは読者にも伝わってしまい、本来の目的を達し得ないのではないか。

 この二律背反をどう解決していくかが、これからのブロガーの悩みどころではないか。

さて。

 ここまで読んでいただき、ありがとうございます。さて、そうした心配がある方に朗報!私の大先輩の方から、こんなお得な情報を貰いました。皆さんにこっそりお分けしたいと思います。

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【ぼっち飯こそ正義】食事は一人ですることが、人類にとっての正解である(断言)

昼食などは基本的に一人で食べることが多い。

その方が好きだ。

むしろ、食事は是非一人でしたいタイプで、複数で行くとその人数だけのテーブルがあるか気にしたり、周りが頼むものに気兼ねしたり、食事中の話題を考えたりと気を使って嫌なのだ。

普段から気を使うタイプなので(笑)、食事くらいは一人で静かに自分のペースで好きなものを食べたい。

しかし、タイミングによっては誰かと食べることになってしまう場合も多い。

最もありがた迷惑なのが、一人で食べている時に、向こうも一人でちょうどいいから一緒に食べませんか、で相席になるパターンである。

向こうも「そちらも一人で食べるのは嫌でしょう、ラッキーですね」みたいな態度なので(考えすぎか?)、更にタチが悪い。

私にとっては迷惑なのである。ただ、それを伝えるのは角が立つと思うので表現していないだけなのだ。

その上、私自身の悪い癖で、そうなると自分の食事をさておき、サービス精神が出てしまい、色々と場を盛り上げてしまうのだ。結果、食事の味もわからず、ストレスフルなまま食べ終わる羽目になる。

ひょっとすると、1人メシかわいそう、と思われているのかもしれない。

そんなことはない!とここで断言したい(演台を両手でバンバン叩きながら)。

食事なんて本来極めてプライベートな行為なのだから、1人が原則なのである。え?例えばランチミーティングってのがある?…それは自由にすれば良い。あくまで、メインはミーティングであって、その手段として食事があるだけだ。まあ、食事を手段に使うことも言いたいことがあるが、ここでは口を噤む。

私が問題にしているのは、本来食事というものは、プライベートなものなのだから、その前提は尊重して欲しいということだ(独裁者ばりに腕を振り回しながら)!

ヒトは昔文化が無い頃、厳しい自然と強力な敵の間でギリギリの生存競争を生き抜いてきたはずだ(そこまで遡る)。

その時の食事は、別のケモノが捕らえた死体を、その目を盗んで奪い取り、洞窟の中に隠れて腐った肉をせせり、骨髄をすすって生きてきた(参考)に違いない。

そこに、ランチミーティングなどという甘甘なものが入り込む余地なんかないのだ。

我々はDNA的にそうした祖先の後ろ暗い食事風景を抱えており、その原風景が1人メシを希求する気持ちの起源になっているはずだ(目ん玉がナルトのように渦巻きながら)。

やれ、ぼっち飯だのランチのグループだの、そんなもの…(軽蔑しきった眼差しで冷笑アンド冷笑)、ね。なんか、世の中でそんなことを悩むこと自体、バカバカしい。

個人的に、食事中に「Don’t Disturb」札を掲げたい。私は単騎行動が好きなのである。

久住昌之、谷口ジロー『孤独のグルメ』のゴローちゃんのようにあまりアレコレとは考えていないが、メシを食うときくらいはストレスを感じたくない、とは常に思う。

だからとにかく食事中の私に話掛けないでほしいのである。

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【炭水化物の塊】オデン種としてのちくわぶを讃える

 オデンの中では、ちくわぶが好きである。

ちばてつや『おれは鉄兵』の上杉鉄兵と同じ嗜好なのである。

 ちくわぶは関東ローカルらしく、先日関西の人と呑んだ時に話題になり、ちくわ と ちくわぶの違いについて説明を要することがわかり、驚いた。

 ちくわぶは、所詮小麦粉の塊だろう、という指摘がある。炭水化物の塊であり、昨今の低糖質ダイエットからは目の敵にされる、「オデン種の中で、最も糖質量の高いもの」という扱いである。事実だからしょうがない。

 口が悪い人からは、グルテンを好きなのは鯉だけだ、お前は鯉なのか、と言われたこともある。

 鯉かな(Yes!)

 鯉じゃない(Yes!)

 「夏色のナンシー」を歌っている場合ではない。

 ちくわぶは、オデン種として出汁の中で煮られることにより、単なるグルテンの塊ではなくなるのだ。出汁の味が絶妙に染み込んだ歯ごたえのあるツマミになるのである。

 味が染みると言えば大根もそうだが、大根の水分が若干出汁と競合するように思える。その点、ちくわぶは相乗効果を示す。

 かようにハーモニーを奏でるオデン種なのである。

 そういえば、チビ太のオデンの一番下の円柱状はちくわぶだと今まで思っていたが、実はナルトだったようだ。正しくはコンニャク△、ガンモ◯、ナルト□らしい。(参考文献

 糸井重里の「萬流コピー塾」でも、

  ちくわぶや、何悲しゅうて、鍋の底

 という風流なコピーがあったと記憶している。

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マッサージの老婆に視力が低下する秘孔を突かれた話

あれは15年くらい前の話だ。

今はもうなくなってしまったスーパー銭湯での出来事である。

中でくつろぎ、全巻揃いのマンガを読んでいた。

確か『包丁人味平』(牛次郎、ビッグ錠)だったと思う。

「カレー戦争編」に突入する前に、風呂に入ることにした。サウナも合わせ、その後に、マッサージも予約しておいたのである。

サウナは普通だったが、マッサージが私の人生で最もきつい体験だった。ものすごく痩せた老婆が施術者で、その施術がとんでもなく痛いのである。

自分が痩せていて非力なのを施術者本人が自覚しているようで、自分の体重+骨の鋭角を最大限利用する技を駆使してきた。

背中のマッサージの際には、上に乗って足の親指のみで立ち、ツボを1点集中で責める。
更に肘の鋭角部分を利用して、ツボを攻めてくる。

接触表面積が極小なので、はっきり言って、施術中の40分は錐で突き刺されているようであった。「刃牙」の消力と同じ原理で、老人のくせに局所集中がすごいのである。

「もう少し弱く」と伝えても、本人の力覚センサが狂っているのか、気持ち弱くなる程度。全く緩和されない。

とにかく地獄であった。

とりあえず終了し、フラフラになりながら、もう一度風呂に入り、再度『包丁人味平』の続きを読み始めることにした。

すると、私の体に異常が起こっていることに気づいた。

マンガを読めなくなっているのである。

視野全体がぼやけ、フキダシのセリフが読めない。絵がぼやけている。先ほどまでと同じマンガなのに。

・・・・やられた。秘孔を突かれた、と思った。

視力を落とす秘孔を突かれたに違いない。なんという技量・・・って感心している場合ではなく、回復の秘孔を探して突いてもらわなくてはいけない。トキ兄さんは近くにいるのだろうか。

こんなスーパー銭湯に北斗神拳の使い手がいたとは!

 

 

 

 

結論は違っていた。あの施術者は単なる非力でマッサージのうまくない人間であった。

では、私の体に降りかかったこの謎はどのように解けたのか。

原因はメガネにあった。

マッサージ前に風呂で水分をつけたままのメガネをつけてサウナに入ったことにより、メガネ表面のコーティングが部分的にまだらに剥離したことが、視野をぼやけさせた原因であった。

その後、購入したメガネ屋に持って行って修理ができるのか聞いてみた。

「修理できません」

であった。とほほ。買い直しとなった。

ということで以来、メガネを持ってサウナに入ることをやめた。

その結果、横山やすし状態で、サウナでキョロキョロする羽目になっているが、メガネがダメになることを考えれば構わないのである。

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