【R18限定記事】町田でラーメン七志を昼食で食べた後に、目を疑った光景とは?

注意:青少年の教育上良くない内容が含まれていますので、成人推奨です。

町田で昼食を、と思い入ったのが小田急町田駅近くの「ラーメン七志」である。

ニンニクの効いたサッパリ系とんこつラーメンである。

なかなかうまい。しかし驚いたのは、この店を出た後であった。

なんと隣のビルに「昼キャバ 4,000円/60分」という看板及び案内のボーイが。

本気の価格である。

昼からそんなニーズあんのか?

周りを見ると他にもあった。

簡単に見つかるだけで、この店を入れて3軒。

価格帯は3,000から5,000円/60分で、普通の夜の値段だよな、これ。

探検する肉体的、経済的パワーは無かったが、町田は朝・昼キャバが結構あるようだ。

……よくわからない。

なんでだろう。

夜勤の上りの工場があるのかなあ。

私が知らなかっただけであろうか、世の中進んでるなぁ。

マーケティング的に盲点なのかなあ。

よく知らないが、キャバの店内やあの煌びやかな雰囲気は、外が夜の暗闇であってこそ意味があるのであって、そこを出たら真昼間の現実というシーンは落差が厳しいのではなかろうか。

利用者にとって、そのニーズが少々理解しにくい。いや、激安にするならまだわかるんですよ。でも同じ価格帯だし。

要するに、そもそも面白いのか?と思う。あれって夜のドサクサでこそ成立する、つかの間のひと時ではなかったのであろうか?いや、良く知らないんだけけど(大量の脂汗をかきながら)。

Share

立ち飲み屋探訪:川崎駅「帆立屋」で東芝と失われた20年のことを想う

今週も出張帰りで、ふらふらと疲労困憊で川崎駅周辺を歩いていると立ち飲み屋を発見。入ってみることに。

看板に立ち飲み屋とあるが、位置高めの椅子があった。まあよしとする。

メニューは立ち飲み屋的でリーズナブルであった。

ピリ辛らっきょう、牛スジ煮込み、肉じゃがカレー風。そして酎ハイである。

牛スジ煮込みは良く味付けされていてうまい。

ただ、おしぼりが少々スメルなのが気になった。顔を拭けない。

後から気づいたが、この店のすぐ近くには東芝川崎事業所がある。未来科学館という展示施設もあるが、今この状態で”未来”とは皮肉なものである(失礼ですいません)。

東芝の方々は今何を考えているのだろうか(完全に他人事)。皆でアフターで酒を飲んでうさを晴らしているのだろうか(余計な御世話)。

私が学生の頃は優秀な奴が東芝の就職を勝ち取っていたものだ。私はボンクラだったので、プラント企業に勤めた(その後転職したけど)。

当時は日本の半導体全盛期である。優秀な奴は、三菱電機、NEC、日立、シャープなどに就職していった。その後エルピーダメモリ、ルネサスを始めとする、未だに続く大再編が起こるなんて想像だにしなかった。

6月6日の東洋経済オンラインに「5年前から正社員を減らした300社ランキング」という記事があった。

そのランキングによれば、1位から6位までがエレクトロニクス系メーカである。なんとも悲しいことだ。

少しランキングを引用すると

1位 パナソニック

2位 ソニー

3位 ルネサス

4位 日立

5位 NEC

6位 富士通

・・・

8位 東芝

・・・

10位 シャープ

引用終わり

とこんな感じである。ここにあげた会社の正社員削減総数を合計すると274,121人である。定年退職の自然減も含まれているとは思うが、27万人って……(絶句)。

私も含め、時代に翻弄され、かつ、逃げきれない世代は、まだまだ大変なのである。

参考:失われた20年 wikipedia

東芝川崎事業所を見上げる(本文と写真は関係ありません)

Share

閉所恐怖症にとっての新幹線の思い出

あまり気づかれていない(?)事実だが、新幹線の窓は開かない。つまり一種の閉鎖空間なのである。

閉所恐怖症の私であるが(関連記事)、新幹線の移動はどうってことはない。非常にリラックスである。ただしその気分も平常時であって、平常でないときには結構嫌な気分になることがある。5年前の夏もそうだった(回想モード)。

京都への日帰り出張であった。ちょうど台風が近づいているので、早めに帰ることにしたが、京都駅は通常運転、極めて平常な風景がそこにあった。

台風は速度を速め、既に関東に上陸している。これなら東京に着いた頃には風も止んでいそうだ。

同行した1名は「お先に」とさっさと新幹線に飛び乗って帰っていった。

しかし、何事も無いかのように新幹線のぞみを東京方面に出し続ける京都駅ホームを見て、私に油断が生まれたのである(今でこそ言えるが)。

せっかく帰るのだから、色々買い込んで帰ろうと、駅弁だの、お酒だのを購入。それでも京都駅からの新幹線の流れは平常である。

新幹線に乗ってあとは帰るだけ。座席は満員ではあるが、まあ、なんとかいけるでしょう、という気分で乗る。順調であった。名古屋までは。

新幹線が突然スピードを落とし、時々止まり始める。最終的には静岡手前で完全に止まってしまった。あれ?どうしたの?と思うと車内放送が。

「台風の影響で、河川が増水しております。この先の橋を渡るための基準水位を超えています」というアナウンスが。

あれ?台風は行ってしまったんでしょ?まだ何か障害があるの?

障害はあった。河川増水である。結果、23時になっても新幹線は動かない。食べ物、飲み物は既に無く、車内販売は売り切れ、駅に着いているわけではないので、降りることもできない。

満席なので人のイライラ感も高まる。

あれ?これって閉じ込められている?と初めて思った。急に閉所恐怖症がムクムクと出てきたのである。狭い密閉空間に、大量の人が閉じこめられている光景……これはきつかった。

その後「この先の駅で運転を取りやめます。下りのこだまを走らせますので、それに乗っていただいても構いません。このこだまは、新大阪駅で朝まで停車するので、その車内で休んでいただいても結構です」とのアナウンスが。マジすか。

ここで新たな決断が必要になる。降りて、どこかのホテルを探すか。下りこだまに乗って車内で寝るか。もはやヘロヘロだったので、下りこだまに乗った。一瞬にして、車内で寝たので、気づいたら新大阪駅だった。最初に乗った京都より、西にいた。とほほ。

私より先に行った同行者の乗った新幹線までは無事東京に行けたらしい。まさにあの判断が運命を分けたのである。

私と同じように運転打ち切りの目にあった別の同行者は、駅で降りてホテルを探したらしい。これも地獄絵図で、ホテル探しのサラリーマンだらけで、ホテルを見つけるまでに1時間以上、見つけたホテルは場末のシャワーが水にしか出ないボロホテルだったそうである。

こんなことなら京都でさっさと一泊する決断をすれば良かった。

翌朝はみどりの窓口が開く時間にダッシュ、そこでも大行列の末、東京までのキップに変換し戻ったものの、朝のダイヤも乱れ大変であった。

Share

現時点の極私的喫茶店暫定1位「喫茶室ルノアール」と今は無き「談話室滝沢」の思い出

最近どうも落ち着く喫茶店が少なくなってきた。年寄りになってきたからだろうか、照明が暗い、空間的に落ち着かない、椅子の座り心地が悪いなどの作業環境が気になるようになってきた。

年波○ (寄り切り) ● 私

寄る年波である。

正直スタバやドトールは入りづらい。入るくらいなら、まだマックの方が割り切れる気がする。

その意味で昔存在した「談話室滝沢」は良かった。

ほぼ環境的には、高級オフィス(日本庭園もあった)のような状態で、椅子もゆったり、お見合いだってできるくらいのクオリティなのである。

その上従業員もサービスが行き届いており、非常に良かった。

料金は一律1,000円と高いが、居心地込みで考えれば十分であった。

が、もうなくなってしまった。

今でもこのビジネスモデルはありだと思うんだけど。

その点で最も「談話室滝沢」に近い位置にあるのが「喫茶室ルノアール」であろう。

ゆったりとしたソファ系の椅子があり、飲み物は高い(500-600円)が、「滝沢」ほどではない。

飲み物がなくなるとお茶のサービスがある。おしぼりも清潔かつボリューミー。Wifiも3時間無料で使える。非常に作業しやすいのである。

ぼけっとするには好適である。

ただ時々、パワハラ会話する上司部下、携帯会社にクレーム電話をかけるやつ、昨晩の合コンで携帯を無くし涙目で友達の携帯を使って行った先に電話をかけて探す女性、同伴出勤としか思えない雰囲気のカップル、などに取り巻かれると、きつい。

耳がいいのか、注意力がいいのか、単に聞き耳を立ててしまうのか、結構不要な情報が入ってくる。

携帯無くした女性は、何度も何度も「見つかったら自宅に電話してください!電話番号は……」とやってるから電話番号を記憶してしまったでは無いか。覚えたくないので、努力して忘れる苦労まで要した。

「談話室滝沢」無き後、方向性は2つあると思われる。

ホテルのラウンジにあるコーヒースペース。

ヤクザの密談で使われそう(風評被害)だが、ノンビリ感はある。しかし商談はできるが、作業はちときつい。

コワーキングスペース。いっそ作業に特化してしまえ、という訳だ。

でもこれは今のところなかなか無いし、一見さんオーケーも少ないであろう。冷静に考えるとカフェというより、オフィスに勤務してるのと余り変わらない気もする。

この中間点に何か新しいニーズがありそうな気がする(全く思い浮かばないけど)。

贅沢を言ってはキリ無いので、今のところルノアールが私の均衡点である。

Share

立ち飲み屋探訪:本厚木駅「ますや」と非情のライセンス

本日も疲れた。

ファシリテーター不在の終わりなき会議に疲弊し、一休みする間も無くノートPCを開き、メールを見ると、昨日揉めた会議の相手からクレームが。

お馴染みの、言った言わない論になっている。ただし、とどのつまりは、ボクちゃん悪くない、と言いたいらしい。

この手の話は、白黒付けても仕方ないので、まずは個別収束に向け、確かなエビデンスを探した上で、調味料として必要以上の事務方(=私)の進行の不手際を詫びる謝罪文を過剰にまぶして返信。あくまで詫びたのは進行の不手際であって、議事の決定事項はいささかも変えないことは敢えて伝えない。

そののち、そのクレームとなった原因の会議の議事録を作成。さきほどメールで来ていた争点の箇所は、さりげなく、エビデンスに基づき、こちらサイドに有利な表現にしておく。個別では謝罪、公文書ではこちら有利にするという事務方の高等テクニック(そんなのあるの?)である。

ようやく議事録起こしが終わったら、電話が。

例のクレームの相手であり、こちらの謝罪によって自尊心が満たされたのか機嫌が良く、無事手打ちに。議事録では決定事項に妥協無く記載していることは告げない。告げる必要もないからだ。

若干、申し訳ないとは思いつつ。でも、仕方ないのである。全体としての利益のためには、個人のちっぽけな自尊心などガン無視なのである。非情のライセンス(意味不明)である。

外出先でこんなストレスフルな状態で、ちょっと一息入れたいな、という意味で近辺の飲み屋を探す。

本厚木駅近くに、立ち飲み屋があった。

取り敢えず大量発注。

ポテサラ、タマネギ焼き、モツ煮込み。酎ハイとともにいただく。

……しみるなぁ。モツ煮込みとポテサラは店によって違いがでかいなぁ。

……この手の大規模プロジェクトで、個人の自尊心だの、謝罪ということの何と薄っぺらいことか。これまで、嫌と言うほど見せられ、また、やり過ごしてきた。結局、組織としての成果の最大化のためには、個人の自尊心や謝罪すらツールとして消費されるのである。

その一方で、我々の生活はリアルなので、個人レベルで見れば、確実にメンタルが消耗していくことも間違いない事実である。

いくら、”僕は潤滑油です(就活の定番トーク)”といっても、その使用条件を超えたら、潤滑剤だって、磨耗し固化して最後はカジってしまうのである。駆動系の案内(ガイド)の管理は非常に重要なのである。

従って、私は自分を例えて”潤滑油”という奴を信用しない。お前は、潤滑油がカジるまで酷使された事があるのか!と(机をバンバンバンバンと叩いて最後はドリフの学校コントのいかりや長介先生ばりに教壇がめくれて顔面に炸裂)。

……少々興奮してしまった。

そんなこんなで夜は更けるのである。

iPhoneからの投稿(嘘)

Share

【数学者ポール・エルデシュ】エルデシュ数の経営組織論への応用

ポール・エルデシュという有名な数学者がいる。サンシャイン池崎的に言うなら”数を愛し、数に愛された男”である。生涯に1,500編以上の論文を書き、旅を愛して放浪しながら、数学者たちに刺激を与え続けてきた。

様々なエピソードは、ポール・ホフマン『放浪の天才数学者エルデシュ』(草思社)に詳しい。

非常に面白い本である。

エルデシュは問題を作ることが上手かった。彼が作った問題を解くことで、数学上の新たな発見を生み出すこともあり、こうした数学者コミュニティ全体のレベルを上げることにも大きく貢献している。

あまりに多くの数学者と交流したことから、数学者の指標として”エルデシュ数”というユーモアを込めた概念がある。wikipedia より引用する。

まずエルデシュ自身のエルデシュ数を 0 とする。彼と直接共同研究した研究者はエルデシュ数が 1 になり、エルデシュ数が n の研究者と共同研究した研究者は n + 1 のエルデシュ数を持つ。エルデシュ数 1 の数学者は、2007年2月28日の時点で511人いるとされる

引用終わり

つまりエルデシュと直接研究をした(共著論文がある)人はエルデシュ数は1となる。その人と研究した人は2になるというものである。弟子は1で孫弟子は2となる。

ちなみに、ビジネスでも似たような概念を考えることができるであろう。

会社のトップと直接(チェックを受けず)コンタクトできる指数を定義するのである。

仮に、日本を代表する企業であるトヨタ自動車を例にとると、豊田章男社長に直接説明できる人の”豊田章男数”は1となる。トヨタ自動車の中で、豊田章男数=1を持つ人間がどのくらいいるのであろうか。

3桁人数いるだろうか?私はいないと思う(根拠なし)。

また、トヨタ自動車の中堅管理職である課長クラスの平均値だと、豊田章男数はいくつになるであろうか。興味がある。

つまり、会社は階層的構造になっており、平社員が直接トップに物を言う仕組みにはなっていない。仮に平社員が社長に報告する場合でも、その内容について、まず課長チェック、次に部長チェック、さらに事業部長チェックが入るであろう。つまり、この場合には、この平社員の”エルデシュ数”は4になる。

大企業よりベンチャー企業の方が”エルデシュ数”の平均値は低いであろうし、トヨタ自動車より本田技研の平均値の方が、なんとなくだけど低めになりそうだ(根拠ありません)。

そして”エルデシュ数”が小さいほど、その人間のパワーは上がっていくと思われる。

ビジネスパーソン諸兄のエルデシュ数は幾つであろうか。

また、昇進してもそのエルデシュ数が変わっていないとしたら、どうであろうか?

それは名ばかりの形式的ではない本当の昇進なのだろうか?

Share

居酒屋探訪:吉野家で吉呑み

出先で、ほんの軽く飲みたい、でも居酒屋も立ち飲み屋も見つからない。角打ちくらいが丁度いいけど、もっと見つからない。

そんなとき最近利用するのが、吉野家である。なかなかメニューも充実しており、もともと牛丼のアタマ(具)が酒のツマミとしては優秀なので良い。

写真は、ホッピーと豚皿特盛とハムポテサラ。

軽くと言った割には結構頼んでしまうので、ちっともサイフには軽くない。ある意味いいビジネスモデルなのであろう。

以前はあった卵焼きが最近メニューから消えていた。惜しい。

また、お酒のメニューには、吉野家の紅ショウガの梅酢で割った紅ショー割というもある。

これは一度飲んだが、ちょっとダメだった。なんか、微妙に甘いのである。例えるならば、韓国焼酎のチャミスルのような感じ。

あれ苦手なのだ。なんかガムシロ感というか、ケミカル感じがする(個人的感想です)。

Share

ビジネスにおける野球の、レトリックとしての良好な親和性

ビジネスにとって、野球は何故か特異的に会話の例えとして相性が良いようだ。

ビジネスシーンを野球に例えることは、普段の会話の中でよくある。

私自身、野球にはまるで興味がない。ほとんど試合も見ない。正直何が面白いのかさっぱり理解できない。けれど、例え話としては野球を良く使うような気がするし、他のスポーツを使った例えよりもしっくりくる。

日本人にとって、野球のルールが一般的だからであろうか。確かにラグビーとかアメリカンフットボールはそもそもルールがわからないので、例える気にもならない。

サッカーのルールは単純であり、当然知っているが、野球よりビジネスに例えにくい気がする。

野球のビジネスとの親和性とは、

・集団競技であること

・選手の役割が多様で区別されているので、分業的な競技であること

・イニングごとの攻守交代があり、攻守が明確であること

・作戦などの戦略性があること

・試合時間が決まっていないこと

・キャリアパスに一貫性がある(アマ→プロ選手→コーチ→監督→評論家)こと

であろうか。

さらに、監督、審判、観客、コーチ、オーナーなどのそれを支える存在も、ビジネスにおける経営者、監査役、カスタマー、マネージャー、大株主などに例えやすい。”名選手は名監督にあらず”なんて、ビジネス界そのものである。

相撲や格闘技も、戦闘があり勝ち負けがあるためビジネスと相性が良いが、やはり個人戦というのはどうしても例えに限界がある。

そういった意味で、野球というのは、ビジネスで例えやすいスポーツなのであろう。

なお、先日の私の状況は、こうである。

9回表19-1で完全な負け試合。コールドルールがないので試合をやめるにやめられず、完全な消化試合の様相である。私は敗戦処理投手として登板。観客席からは罵声の嵐。キャッチャーはかろうじて座って捕球の態勢をとっているが、後ろを振り返ると、守備陣は既にやる気をなくしてベンチへ戻っている。打たれたらどうする?ベンチの監督の指示は「お前がボールを取りに行け」である。こうなったら三振に取るしかないが、こちらの肩ももはやロートルなので、蝿が止まるヘロヘロボールしか投げられない。いしいひさいち描くところのヤクルト安田である。結果、1アウトも取れず、火だるま。マウンドには誰も来ない。ベンチを見ると皆帰宅したのか、誰もいない。とほほ。しかし試合は続くのである。

く、苦しい。わかっていただけたろうか。

明日はホームランだ!(空元気)

Share

今日、ぼくがきみの誘いに応えられなかった理由(わけ)

ぼくが昨日バーで一人で飲んだボンベイ・サファイヤのことを考えているとき、突然、きみが呼びかけてきたので、ぼくは持っていたレイモンド・カーヴァーの小説を落としそうになった。

「今日、空いているかな?」

きみの目が少し潤んでいる。

突然言われたので、ぼくは「いや、今日はちょっとトラブルが」と答えた。

きみとは昔はずっと会っていた関係なのに、ちょっとしたボタンの掛け違いから疎遠になってしまった。

「トラブルって?」ときみは尋ねる。

ぼくは手を後ろに回して、少し背伸びをしながら「いや、個人的なこと」と答える。

「そう」と、言って、きみは去っていった。

きみから誘ってくるなんて、突然だったので、ぼくは戸惑ってしまった。


終了。気持ち悪い文章を書いてしまった。

正確には、以前酒の席で粗相をしてしまい、このところ疎遠になったかつての飲み友達のオッサン(年上)から、久々に「今日、飲みに行かない?」と誘われたのである。

昨日立ち飲み屋で飲んだホッピーが濃すぎてキツかったなぁと考えていた時である。

そのオッサンの目が潤んでいるのは、酒の飲みすぎで年中充血しているからである。

私が「今日はちょっと」と言って断ったのも事実である。

理由としてあげたトラブルも嘘を言ってはいない。トラブルは事実である。

ただし、その正確な理由は”朝一で座席に座った瞬間に、ズボンのケツが一気に破けていたから”である。常に隠すためのビジネス本を持ち、手を後ろに回して、ケツへの視線を避けていたのである。

ちなみにズボンの状況としては、繊維レベルで裂けている系なので(わかる人にはわかる表現)、修復は無理である。それは初動段階で、トイレにおいて目視確認済みである。

飲みに行きたいのは山々だが、早く帰ってズボンを購入したい。そんな1日であった。

今シーズン2回目、前回は出張先で破れ、ホテルで裁縫セットを借りて応急処置した。

ビジネスマンにとってのスーツは、必要経費にしていただきたい。現場からは以上です。

 

Share

【転職の思い出】信用は無形財産であり、残高がある

 私が転職を経験した際に感じたことは、新たな人間関係を作り上げることは大変だ、ということである。

 これは会社内の異動でもある程度は同じかもしれないが、転職の場合には更にそのリセット規模が大きく、しんどい。

 転職の際に、受入先の上司とは何度も意見交換をして、自分という価値がその職場にとって必要であることを事前に確認して勝算を持って望んできるはずだが、実際にその職場に配属されると、そこでの人間関係には「私」という存在は全くの新参である。技術的はさておき、人間関係においては何も実績がない状態からのスタートである。

 仕事を進めるためには周囲との関係の中で進めていく必要がある訳で、ここで「初めまして」から始めるのはやはりしんどいものがあった。

 これまで転職前に誇っていた自分の成果にしても、そこまでに前の職場で築きあげた組織の力を(一部)使っている訳で、それがリセットされた状態で期待されたパフォーマンスを出すというのは、これは結構しんどいぞ、と思ったことを覚えている。

 何か業務を一つ頼みに行くにしても、「初めまして」からスタートの場合、まず「コイツ誰よ?」という視線を受ける。その後、小さい達成をコツコツと積み重ねていくことにより、次第に信頼を得られ、だんだん業務が円滑に行くようになって来た気がする。

 逆の立場でも最近思うのが、やはり頼まれごとをされるにしても「コイツの言っていることは、そもそも信用できるのか」という思いがあり、承諾するかしないかは、その人間(勿論そのバックの組織も含めてであるが)の「信用力」によって判断するということである。

 やはり、何か頼まれごとを承諾するには、リソースを動かす責任がつきまとう。リソースは有限なので、何でもハイハイと安請け合いする訳にはいかない。そこで「初めまして」の人は、やはり「コイツ誰?(=コイツの言っていることは信用できるのか)」というバイアスをかけて評価されるのは仕方のないことだと思う。

 改めて思ったことは、人間の信用というものは残高があり、この信用の残高を常に個人が背負っているということだ。信用残高が高い人はやはり楽に仕事をできるし、そうでない人は、なかなか仕事をうまく進めにくい。そして、その残高は日々の行動の評価によって増減する。

 成果が全てというものの、組織の中で仕事をする場合、こうした属人的な信用の問題はつきまとう。そして組織という団体戦の方が個人戦よりもアウトプットが良いのは、残念ながらかなりの部分で真実である(例外もあるとは思うが)。

 信用残高は個人とその属する組織の関係性に依存している部分が得てして多い。従って個人が組織を超えて移動する場合、ほぼリセットになることが多いのだ。

 まさに中根千枝が「タテ社会の人間関係」(講談社現代新書)で社会人類学の観点から述べたことが実感される。

(略)個人の集団成員と実際の接触の長さ自体が個人の社会資本となっているのである。しかし、その資本は他の集団に転用できないものであるから、集団をAからBに変わるということは、個人にとって非常な損失となる。 中根千枝「タテ社会の人間関係 単一社会の理論」(講談社現代新書)p.55

 願わくば、社会的、普遍的な信用残高が欲しいと思う(公的資格などはある意味そうした部分を補完するものであろう)。それがあれば、もっと会社組織を超えた人員の流動化が進むはずだ。

 転職の個人的な思い出はまた別に書きたいと思う。

Share